津島軽便堂写真館

名鉄岐阜市内線 4 徹明町~忠節    岐阜市内線1 岐阜2 岐阜3   岐阜5

岐阜市内線(67)

 徹明町 1972(S47).5

揖斐行きの直通急行が続行運転で徹明町交差点に近づきました。
この当時、市内線は連結運転が認められず、520形・510形が続行運転で走り、忠節で連結し、揖斐線は2両連結で走っていました。

徹明町電停は、行先により「のりば」が異なり、522号がいる位置は、長良北町行きの電停で、忠節・揖斐方面の電停は、この交差点を曲がった西側(写真右)にありました。
岐阜市内線(68)

 徹明町 1972(S47).5

上の写真(67)の続きです。
522号に続き、512号が徹明町交差点を曲がります。
その後ろには575号の忠節行きが続いています。忠節方面3連続運行でした。
岐阜市内線(69)

 徹明町 1977(S52).1

新岐阜行きの急行が徹明町電停を出発し交差点を曲がります。
交差点の南東角から撮りました。

市内線でも連結運転が認可され、2両連結で走るようになりました。
514号は簡易旧塗装ですが、うしろの520形は赤一色に塗り替えられていました。
岐阜市内線(70)

 徹明町 1977(S52).1

上の写真(69)と同じ場所から撮りました。
屋根に雪を乗せた562号が忠節に向かいました。
岐阜市内線(71) Nさん撮影

 徹明町 2005(H17).2.12

徹明町のカーブを曲がる770形です。全線廃止が迫った頃、上の(69・70)とほぼ同じ場所から撮りました。
最後まで残った岐阜市内線は↓下記赤線区間です。(国土地理院1/5万地図に加筆)
岐阜市内線(72)

 徹明町 2005(H17).3.20

廃止の10日ほど前の日曜日でした。
510形2連の団体列車が、新岐阜駅前から徹明町で折返し、美濃町線で運転されました。
この写真はその前座で、510形2連が市ノ坪の岐阜工場から新岐阜駅前まで回送される途中です。
徹明町交差点の北東角から撮りました。
岐阜市内線(73) Nさん撮影

徹明町~金町 1971(S46).12.5

南ヤナガセ銀天街のアーチが見えます。
徹明町交差点の少し西です。


初詣の看板の下に、映画「卒業」の看板があります。ダスティン・ホフマン主演で、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」の音楽が懐かしいです!
岐阜市内線(74)

 千手堂 1997(H9).9.20

千手堂のカーブを曲がる丸窓電車510形です。

昔は、千手堂から西鏡島まで鏡島線4.4kmが出ており、市内線の電車が直通していました。鏡島線は1964(昭和39)年10月に廃止され、私の知らない世界です。
岐阜市内線(75)  Nさん撮影

西野町~早田 1998(H10).10.25

登場して間もない780形が、後方に見える忠節橋を渡ったあと坂を下り、西野町に向かいました。


1997~98(平成9~10)年に7両が製造されたVVVFインバータ制御のモ780形です。
781~784号は2005(平成17)年の岐阜市内線・揖斐線の廃止まで8年間、785~787号は同7年間、岐阜市内線の再生という重荷を背負って頑張っったのですが、結局報われず、豊橋へ譲渡されました。既に豊橋での在籍期間の方が長くなり、今やすっかり豊橋の街に馴染んでいます。
岐阜市内線(76) Nさん撮影

西野町~早田 2005(H17).2.12

西野町を出て、忠節橋に向け勾配を上る780形です。
上の写真(75)の逆方向から見た写真です。
岐阜市内線(77) Nさん撮影

西野町~早田 2005(H17).2.12

上の写真(76)の続きで、通り過ぎた電車を振り返って撮りました。
間もなく忠節橋です。
岐阜市内線(78)

西野町~早田 1982(S57).12.18

1948(昭和23)年に架橋された鋼製の忠節橋です。
1884(明治17)年に初代の忠節橋が架けられ、この橋は4代目ということです。

この橋ができる前、市内線は橋の手前が終点で、終点の電停名は忠節橋でした。揖斐線の忠節駅は長良川の対岸にあり、3代目忠節橋を徒歩で渡り接続しました。
1948(昭和23)年に忠節橋が現在の鋼鉄橋に掛け替えられ、市内電車は橋を渡り0.3km延長され、忠節橋駅が対岸へ移転しました。その5年後の昭和28年に市内線は忠節駅まで0.4km延伸し、忠節橋駅は、早田駅と改称されました。
岐阜市内線(79)

西野町~早田 1982(S57).12.18

西日を浴びた忠節橋と572号です。
リベットごつごつ鉄橋の重厚感が、古い電車と良い組み合わせでした。
岐阜市内線(80)

西野町~早田 1982(S57).12.18

忠節側から見た忠節橋です。
背景は岐阜市街で、上の(78・79)の逆方向から見ています。
赤一色の510+520形の直通急行が新岐阜に向かいました。
岐阜市内線(81) Nさん撮影

西野町~早田 2000(H12).4.29

新緑の頃の忠節橋と780形です。
上の(80)と同じ場所から見ました。

この写真を撮った、長良川右岸堤防道路の歩道橋は、岐阜市内線の絶好の撮影ポイントでした。
岐阜市内線(82) Nさん撮影

西野町~早田 2004(H16).11.23

忠節橋を渡る連接車770形を真横から見ました。忠節橋からも金華山・岐阜城がよく見えました。
岐阜市内線(83)

西野町~早田 1974(S49).10

長良川の川原に降りて、忠節橋を渡る電車と、沈みゆく夕日を撮りました。
岐阜市内線(84) Nさん撮影

早田~忠節 2000(H12).4.29

忠節付近の専用軌道を走る780形です。
忠節を出た新岐阜駅前行き電車は、しばらく専用軌道を走り、この急カーブを曲がって道路上の併用軌道へ出ました。
岐阜市内線(85)

 忠節 1981(S56).1

市内線の終点・忠節駅です。
市内線方向を見ています。この当時は、写真右が市内線の降車ホームで、510+520が停車している場所が市内線の乗車ホームでした。
市内線の電車は、写真に写っている渡り線を使って折り返しました。

揖斐線ホームは背面側にあり、市内線・揖斐線直通電車はそのまま直進しました。
岐阜市内線(86) Nさん撮影

 忠節 2004(H16).11.23

上の(85)とほぼ同じ場所から、約34年後に撮った写真です。
市内線用の降車ホームと乗車ホームがなくなっていました。
ほとんどの市内線電車が揖斐線直通になったため、市内線ホームが揖斐線へ統合されてしまったようです。

朝のラッシュ輸送に使われた市内線折返しの570形だけが、この折返し線を使いました。
岐阜市内線(87)

 忠節 1972(S47).11

市内線を続行運転で走ってきた520形と510形は、忠節駅で連結し、ここから揖斐線は2両連結で走りました。

520形の運転台から撮った連結シーンです。
この3番線は低床ホームで、直通列車用ホームで、揖斐線内の折返し列車(750形・2320形等)は、この右の1・2番線高床ホームから発着しました。
岐阜市内線(88)

 忠節 1999(H11).1.10

忠節駅3番線に停車中の780形です。上の(87)と、ほぼ同じ場所です。

770形4編成と780形7両の投入により、揖斐線忠節~黒野間の列車はほぼ全てが岐阜市内線へ直通するようになりました。この右の揖斐線折返し用1・2番線は不要となり留置線として使われていました。左の4番線が、揖斐線から市内線へ直通する電車の乗降ホームでした。
  
揖斐線へ
岐阜市内線、美濃町線、揖斐線は2005(平成17)年3月31日限りで廃止され、岐阜地区600V線区は全滅しました…寂しい限りです。
最終日の様子は、
はなぶさ」に集まる仲間たちをご覧ください

岐阜市内線の車両基地(市ノ坪)の写真がありますので、次頁でご紹介します。
 2016(H28).1.19up
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参考図書:
  「路面電車と街並み 岐阜・岡崎・豊橋」 日本路面電車同好会・名古屋支部編著 トンボ出版 1999(H11).6.10発行
  「世界の鉄道'73」朝日新聞社1972(S47).10.14発行