津島軽便堂写真館

名鉄岐阜市内線 1  長良北町~公園前    岐阜市内線2  岐阜3  岐阜4へ  岐阜5

名鉄岐阜市内線は、2005(平成17)年3月31日に新岐阜駅前でお別れセレモニーが行われ、翌日に全線廃止されました。
もう少し岐阜市が路面電車の運行に協力的であったら何とかなったかもしれないのに…という思いが今もあります。 廃止から10年以上経過しましたが、岐阜へは滅多に行かなくなりました。 岐阜市も、街の賑わいがなくなった今頃になってバスを使った交通網の検討をしているようですが、「覆水盆に返らず」ですね…

岐阜市内線の歴史は古く、美濃電気軌道が1911(明治44)年に駅前~今小町
(左図・大学病院前付近)間で開業、柳ヶ瀬から分岐した美濃町線と同時開業でした。その後、路線を北へ順次延伸し、1915(大正4)年に長良北町まで開通、長良軽便鉄道(後の高富線)と接続しました。
忠節へ至る支線の方は、1925(大正14)年に徹明町~千手堂が開通、鏡島線と接続しました。その年に忠節橋まで延伸
(電停は長良川の手前)、北方線(後の揖斐線)と徒歩連絡で接続しました。
1948(昭和23)年に忠節橋が現在の鋼鉄橋に掛け替えられ、市内電車は橋を渡り、その5年後の昭和28年に左図の忠節駅まで延伸、赤線区間が全線開通しました。1967(昭和42)年には岐阜市内線と揖斐線の直通急行を運転開始しました。岐阜市内線が最後の輝きを放っていたのは、この時代でした。
(しかし同年末に岐阜市議会で市内線廃止決議案が可決…)
1988(昭和63)年6月1日、岐阜未来博の開催に合わせ徹明町~長良北町3.9kmが廃止され、その17年後の2005(平成17)年4月1日に岐阜駅前~忠節3.7kmが廃止され、岐阜の街から路面電車が消えました。

岐阜の街が賑やかだった頃の写真を、長良北町→徹明町
(通称・長良線)、岐阜駅前→忠節の流れでご紹介します。
左の地図は、国土地理院1/5万「岐阜」(右3/4、昭34発行)、「大垣」(左1/4、昭35発行)
岐阜市内線を赤で、その他の路線を別の色でなぞり、電停・駅名を記入しました。
岐阜市内線① Sさん撮影

長良北町 1972(S47).7

終点・長良北町でピューゲルの向きを変えています。

Sさんが生まれ育ったのは、岐阜市内線の沿線で、城下町の古い街並みが残る本町あたりでした。
Sさん高校1年のとき、モ550形がワンマン化され、ピューゲルがZパンタ化されるという噂を聞き、慌ててピューゲル時代の写真を撮りました。

岐阜市内線の伊奈波通~長良北町間には急カーブが4ヶ所あり、大型車が入線できず、長らく2軸単車が活躍していました。1967(昭和42)年、北陸鉄道金沢市内線が廃止され、小型でスリムなボギー車が余剰となりました。名鉄は大量17両を譲り受け、同年7月から岐阜市内線へ導入し、2軸単車を置き換えました。
その中でも550形は10両(550~559)の仲間がいる最大勢力でした。元金沢市内線の2000形電車です。
岐阜市内線②

長良北町 1988(S63).5.29

廃止が迫った頃の終点・長良北町です。
岐阜市内線の通称長良線
(徹明町~長良北町)は、1988(昭和63)年6月1日に廃止(5/31が最終運行)だったので、最終日の2日前です。この日は長良線最後の日曜日でした。
「さよなら岐阜市内長良線」の装飾電車です。写真を見ると、全線廃止のときよりもこの時の方が電車の飾り付けもキチンとされていて、盛大にお別れをしてもらったような感じがします。

昔は、ここで高富線(専用軌道の鉄道線)に接続しており、岐阜市内線の電車が高富まで直通運転していました。その高富線は1960(昭和35)年に廃止されており、私の知らない世界です。
左上の「高富6km
」の道路案内標識が、ここから高富線が出ていたことを教えてくれます。
岐阜市内線③

長良北町 1988(S63).5.29

上の写真②と同じ日に、逆方向から撮った終点・長良北町です。

長良線を走る電車には全部「ありがとう岐阜市内長良線」の飾り付けがしてありました。

この写真の17年後・2005(平成17)年の全線廃止のときは、電車にシールを貼り付けただけで終わってしまい、飾り付けをもう少し何とかできなかったのかと、今でも残念に思います。
岐阜市内線④

鵜飼屋~長良北町 1972(S47).5

道路拡幅前の長良北町付近です。
岐阜駅前行きの電車は道路脇を走っていました。
長良北町を出発してきた559号です。

写真を長良北町から南に向かって順に掲載していますので、撮影年代は前後しています。ご了承ください。
この写真は、上の写真②③の16年前です。
岐阜市内線⑤

鵜飼屋~長良北町 1972(S47).5

上の写真④の逆方向を見た写真です。
ツーマン運転の552号は、間もなく終点の長良北町に到着です。
岐阜市内線⑥ Sさん撮影

(仮)鵜飼屋 1972(S47).9

上の写真④⑤のしばらく後に、鵜飼屋~長良北町の道路拡幅工事が始まりました。
そのため、鵜飼屋電停を長良橋上に移設し、翌年12月下旬まで、ここが終点で折り返しました。
岐阜市内線⑦

長良橋~鵜飼屋 1977(S52).2

長良橋の上を走るモ550号です。
既にワンマン化されていましたが旧塗色で残っていました。
この少し前から、岐阜地区600V線区の電車も、路面電車らしいクリーム色+緑色のツートン色から、赤一色へ塗り替えが始まっていました。
岐阜市内線⑧

長良橋~鵜飼屋 1988(S63).4.12

長良橋上の市内電車にとっては、最後の桜の季節でした。
翌年の桜の季節には、この鉄橋の上を電車が走らなくなりました。
岐阜市内線⑨ 長良橋~鵜飼屋 1974(S49).8 Sさん撮影

長良川の鉄橋を渡る550形です。ワンマン化されたようでZパンタに変えられていました。
岐阜市内線⑩ 長良橋~鵜飼屋 1975(S50).7 Sさん撮影

鵜飼い舟の浮かぶ長良川の上を電車が通ります。岐阜と言えば鵜飼で長良川艶歌ですね(五木ひろし)! ♪「逢うた ひと夜の情けを乗せて、こころまかせの鵜飼い舟」♪
岐阜市内線⑪ 公園前~長良橋 1975(S50).2 Sさん撮影

長良橋の少し手前にある水路を渡ります。雪の日でした。
岐阜市内線⑫ 公園前 1974(S49).2 Sさん撮影

屋根に雪を乗せて559号が公園前のカーブを曲がります。
岐阜市内線⑬ 公園前 1977(S52).9.18 Nさん撮影

公園前の電停を出発したモ550号です。岐阜公園は金華山山麓にあり、ロープウェイ
(右後方に写っています)で山頂まで上がり岐阜城へ行くことができます。長良川鵜飼もすぐ近くで、昔から岐阜一番の観光地でした。
岐阜市内線⑭ 公園前 1977(S52).9.18 Nさん撮影

左の写真と同じ日に撮りましたが、塗り替えの済んだ560形の赤い電車でした。大勢のお客さんが乗り込みます。
岐阜市内線⑮

 公園前 1972(S47).5

金華山山頂にある岐阜城と一緒に撮りました。

岐阜銘菓「鵜の玉子」の広告付き木製電柱が良い感じでした。
岐阜市内線⑯ Sさん撮影

 公園前 1975(S50).1

大雪が降った日の朝です。

電車は頑張って動いていました。

雪の日の朝早く撮れるのは、地元に住んでいる人の強みですね!
岐阜市内線⑰

 公園前 1988(S63).4.12

公園前のカーブを曲がります。

金華山をバックにしたこの場所は、岐阜市内線(長良線)一番の撮影地でした。何度も訪れました。
岐阜市内線⑱

 公園前 1988(S63).4.12


長良北町行きの556号が公園前電停に到着しました。
塀の向こうの立派な松の木が歴史を感じさせます。

上の写真⑰の反対方向を見た写真です。
岐阜市内線⑲ Sさん撮影

 公園前 1974(S49).3


電車を俯瞰しました。
右下が公園前電停で、電車道に面した塀と松の木の前あたりが、上の写真⑱を撮影した場所です。

⑱の14年前の写真です。
岐阜市内線⑳

 公園前 1988(S63).5.29

廃止が迫った頃の公園前電停です。
最終日曜日のため、お名残乗車で混雑していました。
情緒があった風景ともお別れです。
雨上がりで、路面が少し濡れているのも情緒があります。(コンクリートの電柱が目障りですが)
軒先に吊した提灯も岐阜の名産品です。

新緑の金華山を間に挟んだ岐阜城と市内電車の組み合わせも見納めでした。
 2015(H27).11.26up
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参考図書:
  「路面電車と街並み
岐阜・岡崎・豊橋」 日本路面電車同好会・名古屋支部編著 トンボ出版 1999(H11).6.10発行
  「世界の鉄道'73」朝日新聞社1972(S47).10.14発行