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叡電(28) 岩倉〜木野 1970(S45).11.23 比叡山を背に、鞍馬に向かうデナ21号です。 叡電ですから、比叡山の写真が欠かせません。ということで比叡山の写真が登場です。この写真は、私が最初に撮った叡電の写真です。 この前日の1970(S45).11.22に、A先輩に引率されて、大学1・2年生の鉄研仲間4〜5人で山陰線の嵯峨〜保津峡を走る蒸気機関車を撮りに出掛けました。紅葉の渓谷を走る蒸機の撮影ということで気合いを入れてカラーポジ(エクタクローム)を奮発しました。 その夜、一緒に行った仲間から、高校時代の同級生が京都に下宿しているから皆で泊まりに行こうと連れて行かれたのが、町から外れた叡電の岩倉でした。夜遅くまで麻雀をやったような気がします。 翌日、比叡山が綺麗に見えたので、その下宿の近くで撮りました。 当時はまだ中小私鉄の魅力に目覚める前でしたが、この電車に出会ったことが、目覚める一つのきっかけになりました。 |
叡電(29) 岩倉〜木野 1970(S45).11.23 雄大な比叡山です。 当時の叡電・鞍馬線は岩倉までが複線で、ここから手前(鞍馬側)は単線でした。手前右側の線路は、折返し用の引き上げ線です。 |
叡電(30) 岩倉〜木野 1970(S45).11.23 Nさん撮影 Nさんも、前日の嵯峨〜保津峡の蒸機の撮影から一緒に行動しました。 岩倉発車直後の302号鞍馬行きです。 |
叡電(31) Nさん撮影 岩倉〜木野 1970(S45).11.23 比叡山に向かって走るデナ21形2連の出町柳行きですが、岩倉を出ると右にカーブし、比叡山を横に見ながら、そして最後は後方に見ながら走ることになります。 私とNさんの最初の叡電訪問でしたが、結局この岩倉で撮っただけで、鞍馬も八瀬遊園も行かずに終わりました。 |
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叡電(32) 元田中 1978(S53).9.24 京都市電と平面交差する元田中です。 日本最古の歴史を誇った京都市電も1978(昭和53)年9月末で廃止になりました。 廃止直前の日曜日に京都市電を撮影に出掛け、ついでに叡電も撮りました。 京都市電廃止直後に、叡電はポール集電をやめてパンタグラフ集電になりましたので、ポール時代の叡電の最後の頃の写真です。 デナ23号も、運転台の窓がHゴム化されていました。 |
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叡電(33) 元田中 1978(S53).9.24 京都市電が叡電の前を横切ります。 京都市電の電停は「叡電前」で、叡電の電停は「元田中」でした。 両方とも、それなりに電車が通るのですが、なかなか思うようには・・・、車も邪魔をしますし・・・ 京都市電側の架線が複雑な構造になっています。 昔は、ここに連絡線があり、京都市電が叡電に乗り入れていたということです。 |
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叡電(34) 元田中 1978(S53).9.24 出町柳行きのデナ510号が平面交差を渡ります。 この電車も運転台の窓がHゴム化されていました。 叡電の電車が通るたびに、係員が出て、道路の車を止めて、電車に旗を振っていました。 |
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叡電(35) 元田中 1978(S53).9.24 この交差点で1時間くらいいた間に、叡電と京都市電が一番うまくコラボした写真です。 叡電の係員は、電車が交差点(踏切?)の真ん中付近まで行くと、道路脇に引き揚げました。 |
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叡電(36) 元田中 1978(S53).9.24 デナ509号が元田中を出て、次の出町柳(終点)に向かいます。 屋根上を見ると、左側(出町柳方)にはパンタグラフ取付準備工事がしてありました。 |
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叡電(37) 元田中 1978(S53).9.24 元田中を出発して鞍馬に向かうデナ21形2連です。 元田中の駅は、道路を挟んで点対称の位置にホームがありました。 この電車も屋根上(出町柳方)にパンタグラフ取付準備工事がしてありました。 |
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叡電(38) 元田中 1978(S53).9.24 ポール時代の叡電の最後の写真です。 運転台の窓のHゴム化と貫通扉取付改造とパンタグラフ取付準備工事を行った124号です。 私が最初にポール時代の叡電を撮って(上の28・29)から8年が経過していましたが、この日を含めて4回ほどしか行っていません。 なぜ、あこがれのポール電車をもっと撮りに行かなかったのか、残念でなりません(まあ、そんなことばかりですが・・・)。 |
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2012(H24).3.31up | |
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