土佐電鉄 3/4   (軌道線 後免線)

知寄町車庫 土佐電鉄3-@  Nさん撮影

知寄町車庫
     1973(昭和48)年12月26日

土佐電鉄後免線です。
後免線の地図は前ページをご覧ください。

軌道線の電車の基地:知寄町車庫です。
奥の方に旧塗色の電車もいます。
伊野・朝倉方面から来た電車は、このあたりで折り返していました。

知寄町車庫は、Wikipediaによれば、1987(昭和62)年12月に桟橋へ移転していきました。
国分川鉄橋 土佐電鉄3-A  Nさん撮影

国分川鉄橋  1973(S48).12.26

葛島橋の東詰で撮りました。
「あき」行きの直通急行電車です。
土佐電鉄3-B

後免町  1977(S52).5.4

上の写真Aから3年半経過し、後免〜安芸の鉄道線は廃止になっていました。
終点の後免町です。

左の電車は、以前 下関市内(山陽電軌)で活躍していましたが、路線の廃止に伴い、土佐電鉄へやってきた700形です。
「ごめん」の菱形看板がユーモラスです。ごめんごめんと言いながら町の中を走っているような感じがしました。
電車の左横にも線路の跡があり、その線路が埋められてできた電停で、バス停へホームタッチ連絡をしていました。

このときの旅行では、カメラを2台持っていき、白黒を主に、カラーでも撮っています。

←土佐電鉄3-C   後免町  1977(S52).5.4

 幼稚園帰りの園児たちが電車に乗り込みます。

手前側に延びていた線路は、既に使われていませんでした。
逆方向はどんな風景だったか気になりますが、残念ながら写真も記憶もありません。

↓土佐電鉄3-D   後免町  1977(S52).5.4

 終点から少し歩いて、後免町に向かう電車を街中で撮りました。

土佐電鉄3-E

明見橋  1977(S52).5.4

土佐電鉄後免線は、高知の中心街から国分川鉄橋(上の写真A)を渡るまでは道路の中央を走りますが、そこから終点の後免町までの大部分は左の写真のように、道路の横(南側)を走ります。
後免行きは車と対向通行になりますので、注意喚起のため、よく目立つ赤い「ごめん」の菱形看板を付けたと思われます。

路面電車ですが、ローカルムードあふれる沿線風景でした。

私の地元近くにあった名鉄美濃町線と雰囲気がよく似ていました。
土佐電鉄3-F

領石通〜一条橋 1977(S52).5.4

このあたりは山が迫り、一番ローカルムードがありました。
突きあたりのカーブを右に曲がると領石通の電停です。
その突きあたり付近に細い坂道が見えますが、下の写真G・Hはその坂道の上からこちら側を見て撮った写真です

上の写真Eを撮ったあと、明見橋から領石通まで歩いて撮りました。
土佐電鉄3-G

領石通  1977(S52).5.4

傘をさした女性が線路を歩きます。線路が歩道代わりに使われていました。水たまりのある泥んこ道で、チョット歩きにくいですが・・・


雨の日に写真を撮るのは、鬱陶しくて嫌でしたが、あとから写真を見ると、それなりに味わいがあり、頑張って撮っておいて良かったと思います。
土佐電鉄3-H

領石通  1977(S52).5.4

傘をさした女性が線路脇を歩いています。後ろからは電車が近づいてきましたが、おたがいに慣れた感じでした。

土佐電鉄3-I

領石通  1977(S52).5.4

上の写真Hを撮ったあと、振り返って撮りました。
電車が通り過ぎましたので、線路の真ん中を歩きます。

電車がいるあたりが領石通の電停です。
電停に向かって歩いていた傘をさした女性たちは、電車に乗れたのでしょうか。

3-J 領石通  1977(S52).5.4
 カラー写真も1枚。上には水路橋(導水管)も通っていました。
3-K 領石通  1977(S52).5.4 
 電車を降りた高校生も線路を歩いて家に向かいます。

土佐電鉄3-L

領石通  1977(S52).5.4 

左上のJに写っている橋を渡り対岸から撮りました。
土佐電鉄3-M

鹿児  1977(S52).5.4

領石通から電車に乗り、鹿児で降りました。
たぶん鹿児電停付近です。

土佐電鉄3-N

舟戸  1977(S52).5.4

鹿児から舟戸まで歩きました。
たぶん舟戸電停です。

 
土佐電鉄3-O

舟戸  1977(S52).5.4

上の写真Nの逆方向から撮りました。
 Top頁(Home)へ                   土電1(鉄道線)へ    土電2(桟橋線)へ  土電4(伊野線)へ