津島軽便堂写真館

名鉄 八百津線 1/2   LEカー・キハ10形が走っていた頃   八百津線2  三河線(山)

名鉄八百津線は、広見線の明智から分岐し、明智~八百津7.3kmの路線でしたが2001(平成13)年10月1日に廃止となりました。
八百津線は1930(昭和5)年、東美鉄道により開通(電化)しましたが、戦時中の1943(昭和18)年に名鉄へ合併され、名鉄八百津線となりました。
東美鉄道の歴史は複雑です。
Wikipedia(東美鉄道)をご覧ください。
丸山ダム建設のため、1952~54(昭和27~29)年の間、広見線+八百津線+丸山水力専用鉄道(八百津~丸山発電所4.1km)により資材輸送が行われました。この頃が八百津線の全盛時代だったと思われます。
八百津線は、1984(昭和59)年9月に電車運転をやめてLEカーが走るようになり、2001(平成13)年に廃止されました。

左の地図は、国土地理院1/20万「飯田」S43.3.30発行より。八百津線を赤でなぞり、丸山水力専用鉄道を青で追記しました。
八百津線① キハ10形

八百津 1984(S59).11.17

終点・八百津駅に停車中のキハ10形LEカーです。
運転開始から2ヶ月後で、まだ架線も残っていました。
半年間はツーマン運転だったので、車掌も乗っていました。サイドミラーもまだ付いていません。

このLEカーは、富士重工が開発した第二世代レールバスの第1号です。
名鉄では、赤字ローカル線の経費節減のため、1984(昭和59)年に電化路線の八百津線へ第1弾を投入しました。
このあと、国鉄ローカル線を第3セクター化した樽見鉄道・三木鉄道・北条鉄道へ導入されましたが、2軸のLEカーは乗り心地と輸送力に問題があり、1986年に近江鉄道へ導入されたのが最後の2軸LEカーで、その後はボギー車へ移行しました。
八百津線②

 明智 1984(S59).11.17

起点の明智駅は、元「伏見口」駅で中山道伏見宿の最寄り駅でしたが、明智光秀の生誕地・明智城趾に近い(といっても1km以上離れているが)ため、1982(S57)年に明智と改称されました。
横には5200系がいます。
八百津線③

兼山口~明智 1984(S59).11.17

兼山口を出発し、明智に向かうキハ10形です。
営業運転開始から2ヶ月後に八百津線を訪問し、八百津まで乗った帰りに撮りました。
八百津線④

 兼山口 1984(S59).11.17

兼山口に到着するLEカーです。
ホーム1本の無人駅でしたが、電柱を見ると右側のススキの生えてる草むらの中に昔は線路があったようで、丸山ダム建設時の資材輸送の全盛期が偲ばれます。

ホーム先端に逆L字形の白い柱が立っています。これはパノラマカー用の停止位置標板で、2階運転台のパノラマカーの場合、運転士の目の高さに標板を設置していました。パノラマカーの停車駅にはありましたので、八百津線にもパノラマカーが入線していた証明になります。一般の電車用には線路際に背の低い標板が立っています。この写真でも線路右に「1」「2」があります。1両用と2両用の停止位置標板です。(パノラマカーの運転台から、近くの線路際は死角になります)
八百津線⑤ Nさん撮影

 兼山口 1992(H4).9.6

上の写真④の8年後です。

見たところ、大きな変化はありませんが、架線が撤去されています。
パノラマカー用の停止位置標板も撤去され、ワンマン運転用のミラーがホーム両端に設置され、柵も取り付けられました。
車両もサイドミラー付のワンマン車です。屋根上を見るとクーラーがありますのでキハ10形の2次車です。

【八百津線は、1985(S60).3.14からワンマン運転開始】
八百津線⑥

兼山口~兼山 1984(S59).11.17

兼山口から兼山にかけて、山沿いを走っていました。この左側には兼山の町並みがあります(上の地図参照)。

山沿いを走るキハ10形は、なかなか良い雰囲気でした。
八百津線⑦

兼山口~兼山 1984(S59).11.17

上の写真⑥の近くで、少し斜面をよじ登って撮りました。

線路の向こう側の瓦屋根が良い感じでした。
立派な建物なので、地図で調べてみたら可成寺(可成禅寺)と思われます。
可成寺(かじょうじ)は、織田信長の家臣で金山城(=兼山城)の城主だった森 可成(よしなり)や、その子・蘭丸(信長の側近)など森一族の菩提寺です。
(最近調べて知りました。当時はそんな知識は全くなかったので訪問していません)
八百津線⑧

兼山口~兼山 1984(S59).11.17

秋の夕日に照らされた八百津線です。
キハ10形が走り去りました。

私のお気に入り写真です。

下の写真⑨と同じ場所で、トンネルを背にして撮りました。⑨の続きで⑧を撮っています。
← 八百津線⑨ 兼山口~兼山 1984(S59).11.17

八百津線にはトンネルが1ヶ所ありました。トンネルを出てきたキハ10形です。
 ↓八百津線⑩ 兼山口~兼山 1984(S59).11.17

八百津へ向かう列車です。これからトンネルに入るのでヘッドライトを点けました。
1984(昭和59)年9月製のキハ10形1次車(11~13号) 1985(昭和60)年3月製のキハ10形2次車(14~16号)
↑キハ10形パンフレット表紙です。(A4サイズ2つ折り)

名鉄は新形式車両ができると新車パンフレットを作成していますが、増備車の場合は作成しません。わずか半年で同形式の車両のパンフレットを2種類作成するのは非常に珍しいことです。中身はほとんど同じですが・・・

1・2次車の外観はほぼ同じですが、2次車はクーラー付なので屋根中央に薄型クーラーが載っています。その配管を通すために側面中央の柱の幅が少し広くなっています。最初からワンマン仕様なのでサイドミラーが付いています。(1次車も、2次車登場時にワンマン化されミラーが付きました)

↓キハ10形(1次車)パンフレット中面見開き  マウスカーソルをパンフレットの上に置くと2次車に切り替わります (機種によりできない場合もあります)
↓キハ10形の図面と諸元表    パンフレット'84と'85の裏表紙をPhotoshop Elementsで貼り合わせ、見やすくなるように加工しました。
名鉄のLEカーの歴史は下記の通りです
 1984(S59).9    キハ10形(11~13)新造 (2軸車・非冷房)
 1984(S59).9.23
  八百津線・明智~八百津をLE化
 1985(S60).3    キハ10形(14~16)新造 (2軸車・冷房車) これ以降は冷房車
 1985(S60).3.14
  三河線・猿投~西中金をLE化・ワンマン化 八百津線・明智~八百津をワンマン化 (新可児~御嵩の一部列車をLE化・ワンマン化)
 1987(S62).8    キハ20形(21)新造 (ボギー車・15m車)
 1990(H2).5     キハ20形(22~25)新造
 1990(H2).7.1  
 三河線・碧南~吉良吉田をLE化・ワンマン化
 1995(H7).2    キハ30形(31~34)新造 (ボギー車・16m車、キハ10形の代替用) キハ10形(11~16)を廃車→15・16号は、くりはら田園鉄道へ譲渡、他は解体
 2001(H13).10.1
  八百津線・明智~八百津を廃止 キハ21・22を廃車→ミャンマーへ譲渡
 2004(H16).4.1 
  三河線・猿投~西中金、碧南~吉良吉田を廃止 キハ23~25、キハ31~34を廃車→ミャンマーへ譲渡

名鉄は1965(昭和40)年に高山線乗り入れ用の気動車キハ8000系を登場させていたので、気動車の運転士・整備掛員がいて、検修設備もあり、LEカー=気動車の導入に抵抗がなかったと思われます。また、ワンマン化改造用の適当な種車が1500V線区になかったため、ワンマン化対応可能で比較的安価なLEカーを導入したと思われます。【600V線区の谷汲線は1984(昭59)年に750形を改造してワンマン化しました】
くりはら田園鉄道 Nさん撮影

石越~荒町 1999(H11).10.30


 (栗原電鉄で掲載した画像の再掲)

名鉄の八百津線・三河線で活躍した2軸車のキハ10形は、ボギー車30形の導入により1995(平成7)年に不要となり、全6両が廃車になりました。
10形2次車のうち15・16号の2両が「くりはら田園鉄道」へ譲渡されました。

東北のローカル私鉄だった「栗原電鉄」は、1993(H5)年から第三セクター経営となり、1995(H7)年4月1日から「くりはら田園鉄道」と名前を変え、電気鉄道をやめて内燃化しました。
名鉄で元電化路線を走ったキハ10形が、再度、元電化路線を走りましたが、2007(平成19)年4月1日に「くりはら田園鉄道」も廃止となりました。


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 2014(H26).9.20up
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参考図書: 「日本鉄道旅行地図帳7号・東海」 新潮社 2008(平成20)年11月発行