津島軽便堂写真館

名鉄三河線(山)LEカー 2/2   三河線(海)  三河線(山)1へ     八百津線

三河線(山) (21) 西中金~三河広瀬 2004(H16).3.27 Nさん撮影

広瀬隧道の三河広瀬側です。西中金を出発したキハ30形が二つ目のトンネルをくぐり抜けたところです。
三河線(山) (22・23) 西中金~三河広瀬 2003(H15).11.29

左の写真(21)の少し三河広瀬寄りの場所です。線路脇の柿の実が雨に濡れていました。
三河線(山) (24)

西中金~三河広瀬 2003(H15).11.29

三河広瀬を出た列車は、このカーブで向きを南に変え、トンネルに向かいます。
電柱の名残が切り株のようになっていて、ちょっと面白い感じでした。


この列車が通り過ぎたところで振り向いて撮ったのが上の写真(22・23)です。
三河線(山) (25) Nさん撮影

西中金~三河広瀬 2004(H16).3.27

Nさんも、廃止直前に上の写真(24)と同じ場所へ行きました。
カーブの内側から撮りました。
三河線(山) (26)

 三河広瀬 2003(H15).9.28

三河広瀬駅に停車中の西中金行き列車です。
結構大勢のお客さんが降りました。

この駅近くに広瀬ヤナがあり、鮎料理が食べられます。そこへ向かうお客さんたちです。お昼少し前の風景です。
この日はNさんと一緒に廃止半年前の三河線(山)へ出かけ、この折り返し列車を鉄橋で撮った後、広瀬ヤナでビール+鮎料理を満喫しました。

ヤナで思い出すのは、谷汲線沿線にあった赤石ヤナです。赤石ヤナでは鮎料理を食べながら、根尾川沿いを走る谷汲線の電車が見られました(電車が来たときは食事を中断し写真を撮っていましたが・・・)。広瀬ヤナは残念ながら鮎を食べながら三河線の列車を見ることはできませんでした。
三河線(山) (27) 三河広瀬 2003(H15).9.28

西中金に向け出発した列車と、広瀬ヤナへ向かう人たちを見送りました。この踏切を渡ってすぐの矢作川の橋を渡ったところが広瀬ヤナです。
三河線(山) (28) 三河広瀬 2003(H15).9.28

廃止半年前の三河広瀬駅舎です。この駅舎は鉄道廃止後も残り、西中金駅舎と共に国の登録有形文化財に指定されました。
三河線(山) (29) 三河広瀬 2003(H15).9.28

広瀬ヤナでビール+鮎料理のあと、また三河広瀬駅に戻ってきました。酔っ払っていたので、全体が白っぽく見えました。
三河線(山) (30) 三河広瀬 2003(H15).11.29

三河広瀬で降りて、乗ってきた列車が出発するところを撮りました。雨降りで暗かったので、期せずして流し撮りになりました。
三河線(山) (31)

 三河広瀬 2003(H15).12.7

右上の写真(30)の約1週間後、また三河広瀬を訪問しました。

ホームの右側に、昔は貨物側線があり1983(昭和58)年末まで貨物列車が走っていました。

貨物列車が走っていた時代に、この駅で写真を撮っておけばよかったと悔やんでいます。
↑1974(昭和49)年9月17日改正の三河線(山)平日ダイヤの一部(9時~12時)です。貨物列車のスジを青線でなぞりました。
このダイヤで三河線山の貨物列車は、刈谷~三河広瀬1往復(上図青線)と刈谷~猿投2往復が設定されていました。また当時の三河線は知立~三河知立を除きタブレット閉塞式で、タブレット交換駅(閉塞の境界)は、三河知立~豊田市の全駅と梅坪・猿投・西中金駅で、貨物取扱い駅は土橋・梅坪・越戸・猿投・枝下・三河広瀬でした。ダイヤを見ると太線が急行で、知立~豊田市に運行され、途中停車駅は若林・土橋・上挙母でした。その他の通過駅では走行中に運転士が運転台の窓から顔と手を出してタブレットの授受を行っていました。そんな写真を撮っておけばよかったと悔やんでいます。(後悔することばかりですが)
猿投より奥の停車場配線略図です。
緑線は、1974(昭和49)年には既に撤去されていました。青線は1984(昭和59)まで残りました。最後に残った黒線も2004(平成16)年に廃止されました。
水色が旅客ホーム、黄色が貨物ホームです。
三河線(山) (32) Nさん撮影

三河広瀬~枝下 1982(S57).2

三河線(山)で一番の撮影地、矢作川橋梁を渡る赤い電車HL・3730系です。
下流(東)側から見ています。

1985(昭和60)年3月に電車運転からLEカーに切り替えられましたので、LE化3年前の写真です。
三河線(山) (33) Nさん撮影

三河広瀬~枝下 1993(H5).5.23

矢作川橋梁を渡るキハ20形LEカーです。
上流(西)側から見ています。左が三河広瀬方で、右が枝下方です。
三河線(山) (34) Nさん撮影

三河広瀬~枝下 1995(H7).1.15

雪の降る日の矢作川橋梁です。
上流側からキハ20形を見ました。

この当時のLEカーはキハ20形が主力でしたが、この写真撮影直後の1995(平成7)年2月にキハ30形が登場し、キハ30形を中心に運用されるようになりました。
三河線(山) (35)

三河広瀬~枝下 2003(H15).9.28

私が初めて矢作川橋梁で撮った写真です。
キハ30形が鉄橋を渡っています。
Nさんと一緒に三河広瀬駅から歩き、下流側から撮りました。
三河線(山) (36)

三河広瀬~枝下 2004(H16).3.28

上の写真(35)の半年後で、廃止直前の風景です。
お名残乗車で、2両連結のキハ30形は満員でした。
三河線(山) (37) 枝下~三河御船 2003(H15).12.7

跨線橋の上から撮りました。猿投に向かう列車です。
切り通し区間を走ります。
三河線(山) (38) 枝下~三河御船 2003(H15).12.7

左写真の列車の後ろ姿です。キハ10形(1軸駆動)は落ち葉による空転に悩まされたということです。そのため後継は砂箱付きになり、空転したときは砂を撒いて走りました。
三河線(山) (39) 枝下~三河御船 2003(H15).12.7

北海道の原野のようなカーブもありました。
三河線(山) (40) 枝下~三河御船 2003(H15).12.7

上を跨ぐ道路橋(工事中)は東海環状自動車道で2005(H17)年3月に開通しました。そのすぐ向こうに御船川の橋梁があります。
三河線(山) (41) Nさん撮影

枝下~三河御船 2004(H16).3.27

左上の写真(39)と同じ場所です。
線路の手前側は1999(平成11)年の集中豪雨で路盤が流出したため、木が生えておらず、原野のような風景になったと思われます。
三河線(山) (42)

三河御船~猿投 2004(H16).3.28

廃止直前です。
この枝垂れ桜は、早めに咲いてくれたので三河線の最後を見送ることができました。

車窓から綺麗な桜が見えたので、三河御船駅で下車して歩きました。
桜とLEカーの最後を撮るため、ここには大勢のカメラマンがいました。


これが三河線(山)廃線区間の最後の写真です。電車や貨物列車が走っている時代にもっと写真を撮っておけばよかったと後悔するばかりです。
三河線(海)
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名鉄のLEカーの歴史は下記の通りです (再掲)
 1984(S59).9    キハ10形(11~13)新造 (2軸車・非冷房)
 1984(S59).9.23
  八百津線・明智~八百津をLE化
 1985(S60).3    キハ10形(14~16)新造 (2軸車・冷房車) これ以降は冷房車
 1985(S60).3.14
  三河線・猿投~西中金をLE化・ワンマン化 八百津線・明智~八百津をワンマン化 (新可児~御嵩の一部列車をLE化・ワンマン化)
 1987(S62).8    キハ20形(21)新造 (ボギー車・15m車)
 1990(H2).5     キハ20形(22~25)新造
 1990(H2).7.1  
 三河線・碧南~吉良吉田をLE化・ワンマン化
 1995(H7).2    キハ30形(31~34)新造 (ボギー車・16m車、キハ10形の代替用) キハ10形(11~16)を廃車→15・16号は、くりはら田園鉄道へ譲渡、他は解体
 2001(H13).10.1
  八百津線・明智~八百津を廃止 キハ21・22を廃車→ミャンマーへ譲渡
 2004(H16).4.1 
  三河線・猿投~西中金、碧南~吉良吉田を廃止 キハ23~25、キハ31~34を廃車→ミャンマーへ譲渡
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参考図書: 「名古屋鉄道社史」 名古屋鉄道 1961(昭和36)年5月発行
       「名鉄の廃線を歩く」 徳田耕一編著 JTBキャンブックス 2001(平成13)年8月発行
       「三河を走って85年」 郷土出版社 1999(H11)年2月発行