信貴山ケーブルカー     信貴山へ、東西両側から登る鋼索鉄道がありました。

信貴山のケーブルカーの地図 近鉄は路線距離日本一の私鉄で、鋼索鉄道(ケーブルカー)の距離でも日本一です。生駒山へ登るケーブルカーと、信貴山へ東西両側から登るケーブルカーがありました。
大阪方面から信貴山に登る最短ルートは、近鉄大阪線で鶴橋→河内山本(乗換)→信貴山口のルートで、信貴山口から西信貴ケーブル(左の地図の桃色線)で高安山、高安山から信貴山門行きのバスです。
かつては、奈良県側から鋼索鉄道で信貴山に登るルートがありました。
1922(大正11)年に開業した東信貴ケーブル:信貴山下〜信貴山(左の地図の赤線)です。こちらが先に出来たのですが、1930(昭和5)年に西信貴ケーブルが出来たため大阪方面からのお客を奪われてしまい、東信貴ケーブルは1983(昭和58)年に廃止されました。
←左の地図は、国土地理院1/20万「京都及大阪」S43.3.30発行(上1/4)、「和歌山」S42.730発行(下3/4)より
まずは、現存する西信貴ケーブルの写真からご覧ください。
↑西信貴鋼索線@ 信貴山口 1979(S54).3.4 Nさん撮影

西信貴ケーブルの起点・信貴山口に停車中の7号「ずいうん」です。

近鉄西信貴鋼索線は、信貴山口〜高安山1.3km、軌間1067mmです。
←西信貴鋼索線A 信貴山口〜高安山 1979(S54).3.4 Nさん撮影

西信貴ケーブルの中間点での交換です。
青色の8号「しょううん」と交換します。
 
↓西信貴鋼索線B 高安山 1979(S54).3.4 Nさん撮影

西信貴ケーブルの終点・高安山に到着しました。
西信貴鋼索線C Nさん撮影

高安山駅前 1979(S54).3.4

ケーブルの高安山駅から駅前を見た風景です。信貴山門行きのバスが停まっていました。
昔は、信貴山電鉄の山上鉄道線が、ここから信貴山門まで2.1km複線で走っていたというのですから驚きです。
→信貴山電鉄(このHPをぜひご覧ください)
山上鉄道線は、戦時中の1944(昭和19)年に鋼索線と共に不要不急路線として休止になり、そのまま廃止されました。(鋼索線は1957(昭和32)年に復活しました)
現在バスが走っている道路が、昔の鉄道線跡ということです。

東信貴鋼索線@ Nさん撮影

 信貴山 1979(S54).3.4

1983(昭和58)年に廃止となった、信貴山の東ケーブルです。

信貴山朝護孫子寺の最寄り駅・信貴山駅に9号が停車中です。
いかにも戦前派車両という風貌の、好ましいスタイルでした。
東信貴鋼索線A

信貴山〜信貴山下 1974(S49).1.27

まもなく信貴山に到着する列車です。

この鋼索線は、1922(大正11)年に信貴生駒電鉄により開業しました。
山下(→信貴山下)〜信貴山1.7km、軌間1067mmでした。
東信貴鋼索線B

 信貴山 1974(S49).1.27

信貴山駅に到着した9号です。

車両の正面形状は上と下で大きく異なっていました。
東信貴鋼索線C 信貴山 1974(S49).1.27

信貴山駅の少し上にあったケーブルの巻き上げ所です。
東信貴鋼索線D 9号車内 1974(S49).1.27

車内は木製で良い感じでした。

東信貴鋼索線E

信貴山〜信貴山下 1974(S49).1.27

中間点で10号と交換しました。

山上側を見た写真です。
東信貴鋼索線F Nさん撮影

信貴山〜信貴山下 1979(S54).3.4

中間点で10号と交換しました。

山下側を見た写真です。
この当時の近鉄のケーブルカーの塗装はツートンカラーで、ペアで動いている車両の奇数号車がクリーム+赤、偶数号車がクリーム+青でした。

カラー写真(Nさん撮影)は、白黒写真の5年後です。
見比べてみると前照灯の形状が若干異なります。シールドビームに換えられたようです。
東信貴鋼索線G Nさん撮影

 信貴山下 1979(S54).3.4

近鉄生駒線との接続駅・信貴山下駅に停車中の9号です。

東信貴鋼索線の信貴山下付近は、ケーブルカーにしてはかなり緩い勾配でした。
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参考図書:「日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1」 新潮社H20.12.18発行