この地図は、国土地理院1/20万
 「飯田」S43.3.30発行より(上の3/4)
 「豊橋」S42.6.30発行より(下の1/4)

明知線のC12  1/2  1973(昭和48)年10月まで走ったC12の記録です。33‰を喘ぎながら登ってました。

明知線の地図 国鉄明知線は、中央線の恵那から明知まで25.1kmの急勾配が連続する赤字ローカル線でした(左図の赤線)。
国鉄再建法で第1次廃止対象路線となり、1985(昭和60)年に第三セクターの明知鉄道に転換されました。

明知線を語る上で欠かせないのが、岩村電気軌道の存在です(左図の青線)。岩村電軌は、大井(現在の恵那)から岩村まで1906(明治39)年に開通しています。驚くことに岐阜県最初の私鉄で、岐阜市内を走った美濃電軌より約5年も早く開業しています。
岩村電軌開業の明治39年以前に愛知県内で開通していた私鉄路線は、豊川鉄道(後の国鉄飯田線)、関西鉄道(後の国鉄関西線)、尾西鉄道(弥富〜新一宮)、名鉄の前身である名古屋電気鉄道(笹島〜千種、柳橋〜押切町)、岡崎馬車鉄道(後の岡崎電軌・岡崎駅前〜明大寺)、瀬戸自動鉄道(後の瀬戸電・大曽根〜瀬戸)だけです(名鉄の社史で調べました)。
岩村は女城主で有名な岩村城の城下町ですが、こんな早い時期に岩村のための鉄道が出来、しかも電車が走っていたとは驚きです。
1933〜34(昭和8〜9)年に国鉄明知線が開業(順に延伸)し、乗客と貨物を奪われた岩村電軌は、1935(昭和10)年に廃止となりました。

私が最初に明知線を訪問したのは、1969(昭和44)年の夏でした。
この年、私は大学に入学し、鉄道同好会に入りました。その年の夏の旅行で連れて行ってもらったのが明知線です。
私が鉄道好きになったのは、高校生のとき同級生に鉄道マニアがいて、感化されたためでした。ちょうど、関水金属の9mmゲージが出だした頃で、鉄道趣味は鉄道模型から入りました。実物の知識は、毎日乗っていた名鉄電車以外はほとんどなくて、全くの初心者でした。
明知線は、生まれて初めての本格的撮影旅行でした。
↓明知線@ 恵那 1969(S44).8.18  恵那で出発を待つC1242号
↑ 明知線列車ダイヤ(1971.4.26版)です。貨物列車(2往復)のスジを青くなぞりました  鉄道ピクトリアル・アーカイブスセレクション18「国鉄ローカル線」H22.3.10発行より
明知線A

阿木〜飯羽間 1969(S44).8.18

生まれて初めての本格的撮影旅行ですが、まだ自分のカメラを持っておらず、親からキャノネットを借りて出掛けました。

鉄道写真を撮る人は、高校時代(早い人は中学時代)からカメラを持っていろんな所へ出掛けられているようですが、私はだいぶ遅咲きでした(その割りに早くしなびてしまいましたが・・・復活してHPを立ち上げました)。撮影場所も分からず、先輩の後ろをただただ追いかけました。

上のダイヤで見ると、たぶん恵那を12時頃の列車に乗り、阿木で下車して約1時間後の貨物列車を待ちました。写真に11キロのキロポストが写っていますので、阿木から1km歩いたところです。
上の@の写真で恵那駅に待機していたC1242号牽引の貨物列車が急勾配をゆっくりと登ってきました。
明知線B

阿木〜飯羽間 1969(S44).8.18

急勾配に挑む蒸気機関車の走行を初めて見て驚きました。
噂には聞いていましたが、蒸気機関車は急勾配では、迫力ある力強いドラフト音とは裏腹に、速度がガクッと落ちることを知りました。本当に、走れば追いつくという表現が嘘ではないような気がしました。
明知線C

岩村〜花白 1969(S44).8.18

上のABの貨物列車が、明知で折り返して来ました。
明知線は随所に33‰の急勾配があるため、C12が牽引できる重量は、換算11両(110トン)ということですから(鉄道ピクトリアル参照)、貨物満載であればこのくらいの両数が限度であったと思われます。
喘ぎながらバック運転で坂を登ってきました。
明知線D

岩村〜花白 1969(S44).8.18

明知行きの列車です。この日の最後の写真です。
このあと、たぶん岩村まで歩き、列車で阿木まで移動し、阿木の近くの旅館に泊まったような記憶があります。


日付を覚えていなかったのですが、あとから思い出すと、この日ラジオで夏の甲子園大会の決勝戦を放送していました。先輩の誰かがトランジスタラジオを持っていて、えらく長い時間放送していて、断片的に聞いていたことを思い出しました。この日は延長18回までやっても結局決着がつかず、翌日再試合になった日です。三沢高校の太田幸司投手が結果的に負け投手にはなりましたが、一躍甲子園の星となりました。
肝心なことは忘れても、こんなことは覚えているものですね!
この日をインターネットで調べたら、1969年8月18日ということが分かりました。
明知線E

東野〜阿木 1969(S44).8.19

阿木に宿泊した翌日です。
朝の恵那行き貨物列車です。
阿木から東野方向に歩いて、トンネルを出た付近で撮ったと思います。


このときの鉄研旅行は、記念写真を見ると9人で出掛けたようです(そのうち新入生は私を含め3人でした)。
この日の朝、北恵那鉄道へ乗りに行くグループと、明知線で蒸機を撮るグループに分かれました。初心者の私は迷わず明知線の蒸機グループの後ろを付いていきました。
明知線F

東野〜阿木 1969(S44).8.19

上の写真Eの続きです。
走り去る列車で、しかも下り坂のようです。
今になって思えば、折角の蒸気機関車を何故ここで撮ったか思い出せません。
(先輩の後ろをついていくだけの私は、景色の良いところで撮れたことで満足しましたが・・・)
明知線G

恵那〜東野 1969(S44).8.19

上の写真EFの場所で明知行きの貨物列車を待つと光線状態も良くなり、良い写真が撮れたかもしれませんが、そうすると恵那に戻れるのが夕方になってしまい、次のスケジュールに影響してしまいます。
午前中の列車で阿木から恵那まで出て、昼過ぎに恵那を出発する貨物列車を待ちました。

恵那から少し歩いたところです。
33‰の急勾配をC12が一所懸命力を振り絞ってゆっくりと走ってきました。
明知線H

恵那〜東野 1969(S44).8.19

横を通り過ぎました。
煙も良い感じです。
明知線I

恵那〜東野 1969(S44).8.19

上の写真GHの続きです。
貨物列車が通り過ぎました。



このあと、恵那まで戻り中央線に乗り北に向かい、中津川からは北恵那鉄道に乗りにいったグループと合流しました。D51が牽引する客車列車に乗り、大桑で下車し、DD51重連の急行「ちくま」と交換するのを撮ってから、須原まで途中D51を撮りながら歩きました(先輩の後ろをついて歩いただけですが)。
明知線J  Nさん撮影

 明知 1970(S45).5.1

終着駅・明知に到着したC12の貨物列車です。
上の写真@〜Iの翌年ですが、機関車には見苦しいゼブラ模様が塗られていました。おまけに煙突の上には回転火の粉止めまでついて外観を損ねています。


この年にNさんは大学に入学(私の1年後)し、鉄道同好会に入りました。その1ヶ月後に鉄道同好会のグループで明知線を訪問しました(私は何故か不参加でした)
明知線K  Nさん撮影

 明知 1970(S45).5.1

明知駅で入換中のC12です。
トラに積んでいるのは明知特産の耐火レンガです。

蒸機の時代のローカル線終着駅です。
腕木信号機や給水塔、更には木造の機関車駐泊所などのストラクチャーがローカル線の良い雰囲気を盛り上げてくれます。
明知線L  Nさん撮影

 明知 1970(S45).5.1

明知駅に到着する気動車です。
急勾配用のキハ52の2連と思われます。

明知駅も、今は町名に合わせて明智駅になりました。
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参考図書:鉄道ピクトリアル・アーカイブスセレクション18「国鉄ローカル線1960〜70」 2010(H22).3.10発行
              [明知線の記事は1971.8(No.254)の再録]
      岩村電気軌道については、『浅見與一右衛門翁と「岩村電車」』永田 宏著 1997(H9).12 岩村町発行
         復刻版が2007(H19).10に発行され、岩村歴史資料館で販売されていました(H24.10時点、\2,000)