津島軽便堂写真館
国土地理院1/20万 「札幌」S41.2.28発行より

北海道炭鉱汽船 夕張鉄道        夕張付近の鉄道地図へ

夕張鉄道(地図の青線)は、函館本線の野幌駅から、室蘭線の栗山、夕張線の鹿ノ谷を経由し、夕張本町まで53.2kmの長大な私鉄でした。
夕張炭田の隆盛に伴い、国有化された夕張線の輸送力が逼迫してきたことと、札幌・小樽方面への短絡ルートとして、1926(大正15)年に栗山~新夕張(→夕張本町)が開通、1930(昭和5)年に野幌~栗山が開通し全通しました。昭和40年代から、自動車交通の発達と、夕張炭田の衰退により厳しい状況となり、1971(昭和46)年11月に、鹿ノ谷~夕張本町が廃止、栗山~鹿ノ谷の旅客営業廃止となり、1974(昭和49)年には、野幌~栗山の旅客営業も休止、翌1975(昭和50)年に全線廃止となりました。    詳細は→Wikipedia北炭夕張鉄道をご覧ください。
夕張鉄道① railbusさん撮影

 鹿ノ谷 1968(S43).8.15

鹿ノ谷の機関庫です。
9600形がウジャウジャいました。
左から、12・24・26・27号機です。
(12号は9600形ではないですが・・・)
手前にはスッキリした転車台がありました。
鹿ノ谷の線路配置は
 →構内配線図(鹿ノ谷)
   をご覧ください。

railbusさん最初の北海道旅行(昭和43年8月)のときの写真です。大夕張鉄道訪問のあと、夕張鉄道鹿ノ谷で撮りました。
夕張鉄道② railbusさん撮影

 鹿ノ谷 1968(S43).8.15

機関庫前の21形26号機です。
元国鉄の9600形29674号でした。

夕張鉄道21形SLは国鉄9600形と同じ形状で、21~28号の8両が在籍し、21号のみが自社発注機で、22~28号は国鉄9600形の払い下げでした。
夕張鉄道③ railbusさん撮影

 鹿ノ谷 1968(S43).8.15

北海道の炭鉱に門鉄デフがいるとは!!
門鉄デフの28号機は、元国鉄49650号でした。
夕張鉄道入線後、デフとテンダーが改造されたと書いてありました。


railbusさんの夕張鉄道訪問は1回だけで、それも鹿ノ谷だけでした・・・
夕張鉄道④ Nさん撮影

 鹿ノ谷 1971(S46).3.31

入換中の25号機です。
元国鉄の49694号でした。


Nさんは、2回目の北海道旅行で夕張鉄道を訪問しました。
1971(昭和46)年の春休み、三美運輸でB6の写真を撮ったあと、国鉄で美唄12:56-岩見沢-14:21由仁へ到着し、そこからバスに乗り継ぎ、15:08鹿の谷へ到着しました。
夕張鉄道⑤ Nさん撮影

 鹿ノ谷 1971(S46).3.31

11形12号機です。

11形は、国鉄8620形のボイラー部分と9200形の走行部分を組み合わせた軸配置1Dの機関車です。
9200形と言っても私には馴染みがないので、「8620形のボイラー部分と9600形の走行部分を組み合わせた機関車です。」の方が、私たちの世代には分かりやすいですね。

昭和40年代前半の夕張鉄道には、11形SLが4両(11~14号)、21形SLが8両(21~28号)在籍していました。
11形の中で最後まで残ったのが、この12号です。他の3両は、1969(昭和44)年、DL2両の導入に伴い廃車となりました。
夕張鉄道⑥ Nさん撮影

 鹿ノ谷 1971(S46).3.31

11形12号機です。
給水所で一休みしています。
後ろは給炭所でしょうか?
雪国だから雪が積もらないように屋根付き?
夕張鉄道⑦ Nさん撮影

 鹿ノ谷 1971(S46).3.31

12号機を前から見ました。

上の写真⑥の反対側です。
夕張鉄道⑧ Nさん撮影

 鹿ノ谷 1971(S46).3.31

鹿ノ谷機関区の全景です。

左に写っている気動車は夕張鉄道オリジナルのキハ200形です。国鉄のキハ42000形(後のキハ07形)に準じた設計で、1952(昭和27)年に製造されました。
夕張鉄道⑨ Nさん撮影

 鹿ノ谷 1971(S46).3.31

転車台と機関庫です。
左が26号機、右が21号機です。
夕張鉄道⑩ Nさん撮影

 鹿ノ谷 1971(S46).3.31

21号機のアップです。
よく見ると、前面にエアーシリンダを縦に二つ付けています。ネットで調べると、連結器解放用(遠隔操作)で、運炭列車を後補機で押していって、峠を越えたときに走行中に解放するためのもののようです。
シリンダの作用棒がスノープロウにつながっていますので、スノープロウ上下用のシリンダです。除雪時はスノープローを下げ、線路間のレール踏面より低い場所を除雪できるように設計されていて、分岐器通過時等には上昇させて使用していたようです。走行中の連結器解放はキャブから伸びていたロッド(煙室手前に写っています)で行っていたようです。
(ご覧になった方から、間違いのご指摘があり修正しましたH25.10.13)
9600形蒸機は、製造初年が1913(大正2年)で、大正時代に770両も製造され鉄道省(国鉄)に納入されました。この21号機は、夕張鉄道の自社発注機で、1941(昭和16)年に製造されました。9600形としては一番最後に製造された機関車です。
夕張鉄道⑪ Nさん撮影

 鹿ノ谷 1971(S46).3.31

車庫の近くに、湘南形の気動車・キハ250形252号がいました。
この252号は、1971(昭和46)年11月に栗山以東の旅客営業廃止に伴い、水島臨海鉄道へ譲渡され、その後岡山臨港鉄道へ転じ、同線廃止まで活躍したということです。
その右には、後ろから見ると特異なスタイルのラッセル車キ1号がいます。
その前にいるのは、元国鉄9614号の23号機です。


Nさんは、鹿ノ谷滞在1時間ほどで、上の④~⑪を撮った後、国鉄夕張線に乗って帰りました。この約8ヶ月後に、夕張鉄道の栗山~鹿ノ谷の旅客営業が廃止され、鹿ノ谷~夕張本町は廃線になってしまいましたので、乗らなかったのを悔やんでいますが・・・
交通公社時刻表1972(昭和47)年4月号
旅客営業区間は、野幌~栗山。栗山以東はバス化されていました。
夕張鉄道⑫ Nさん撮影

 野幌 1972(S47).3.28

キハ250形251号は、道内初の液体式気動車で1953(昭和28)年に製造されました。
夕張鉄道で野幌~栗山の旅客営業終了(昭和50年)まで使用され、その後関東鉄道(鉾田線)へ譲渡され714号となりました。鉾田線のあとを引き継いだ鹿島鉄道が2007(平成19)年に廃止になるまで活躍しました。


上の写真④~⑪の1年後です。
Nさんは再び夕張鉄道を訪問しました。札幌を7:47に出発、野幌へ8:11に到着しました。野幌8:40発のこの列車に乗り、栗山に向かいました。
夕張鉄道⑬ Nさん撮影

室蘭本線・栗山 1972(S47).3.28

栗山を出発する、室蘭本線の客車列車です。重連の蒸機が牽引し、岩見沢方面に向かいます。
夕張鉄道⑭ Nさん撮影

 栗山 1972(S47).3.28

栗山9:30発の野幌行き251号です。


栗山~鹿ノ谷の旅客列車は廃止されていましたが、貨物列車は残っていましたので、バスで夕張地方の若菜に向かいました。
夕張鉄道⑮ Nさん撮影

 若菜 1972(S47).3.28

若菜は鹿の谷の南にあって、夕張製作所の専用線も分岐していました。
専用線で入換をする12号機です。

手前の線路が、たぶん夕張鉄道線です。
夕張鉄道⑯ Nさん撮影

平和~若菜 1972(S47).3.28

有名な平和~若菜の大カーブです。180°向きを変えるのでΩループとも呼ばれていたようです。
Wikipediaに、このΩループ付近の1976年の航空写真が掲載されていました。廃線後ですが線路跡がよく分かります→平和駅跡
左の写真の右奥に平和駅があり、そこから次の錦沢駅に向けてが峠越えの難所でした。石炭満載の運炭列車は平和駅で後補機を連結し、約1km後押しした後、走行中に切り放したということです。隣の錦沢駅はスイッチバックの駅でした(残念ながら写真はありません)。

列車が走っているのは、Ωループの一番南の部分で、平和駅を出発した直後になります。
夕張鉄道⑰ Nさん撮影

平和~若菜 1972(S47).3.28

編成の短い貨物列車です。
上の⑯と同じ場所で、少し左に振った位置です。
夕張川の支流、志幌加別川の鉄橋を渡ります。
夕張鉄道⑱ Nさん撮影

平和~若菜 1972(S47).3.28

上の写真⑰の続きです。
鉄橋を渡っています。
夕張鉄道⑲ Nさん撮影

平和~若菜 1972(S47).3.28

上の写真⑰⑱の続きです。
21形25号機が近づいてきました。


これが、Nさん最後の夕張鉄道の写真です。


夕張地方の炭坑の衰退と共に、鉄道も厳しい状況となり、1975(昭和50)年3月の北炭平和鉱閉山に伴い、夕張鉄道(晩年は北海道炭鉱汽船が経営)も同年4月1日付で廃止となりました。
この写真の3年後でした。
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参考図書:
   「新・消えた轍1 北海道-ローカル私鉄廃線跡探訪-」寺田裕一著 ネコ・パブリッシング 20011.7.30発行
   「私鉄車両めぐり特輯[第Ⅱ輯]」 鉄道図書刊行会 1977(昭和52)年7月発行(元は私鉄車両めぐり第9分冊の「夕張鉄道」
   「よみがえる北海道の鉄道・軌道」 浅原信彦・高井薫平著 学研パブリッシング 2012.9.11発行