国鉄夕張線(登川支線を含む)+追分機関区 夕張付近の鉄道地図へ
夕張線① 夕張 1977(S52).8.4 国鉄夕張線の終点・夕張駅の1977(昭和52)年の風景です。 駅舎の後方の建物に、北炭の社紋☆(五稜星形)が掲げられています。 Wikipediaで調べると、北炭夕張炭鉱は1977年に閉山と書いてありますので、閉山直前の風景です。 この夕張駅は、1892(明治25)年に開業し、左写真のように炭鉱のすぐ近くにありましたが、1985(昭和60)年に1.3km手前の夕張市中心部に近い位置(夕張鉄道の夕張本町駅があった付近)に移転、その後1990(平成2)年、更に0.8km手前の現在地へに再移転したということです。→Wikipedia |
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夕張線② 夕張 1977(S52).8.4 夕張駅の少し奥の風景です。 給水塔・機関庫・転車台の前にDD51が停まっていました。 夕張線は、国鉄の現役最後の蒸機牽引列車が走った路線でした。 その最終列車は、1975(昭和50)年12月24日、夕張19:10発、追分21:30着の6788列車で、石炭列車を追分機関区のD51241号が牽引しました。(鉄道ピクトリアルNo.318/1976年4月号より) なお、SL旅客列車の最終は、その10日前12月14日、室蘭7:50発、岩見沢11:42着の225列車で、岩見沢一区のC57135号が牽引しました。 私の最初の北海道訪問は、1977(昭和52)年ですから、SL現役時代には間に合いませんでした。railbusさんやNさんは、現役時代に訪問していますが、国鉄夕張線では撮らなかったとのことで・・・ |
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交通公社時刻表1977(S52).5月号より 私が最初に北海道旅行をしたときの夕張線の時刻表です。 当時の記録と記憶が無いので、時刻表と写真から推定するしかありませんが、 夕張15:17→15:30清水沢、三菱大夕張鉄道に乗り換えて、清水沢16:07→16:28南大夕張16:37→16:55清水沢、南大夕張まで1往復した後、清水沢17:59→18:12紅葉山に到着。 登川支線乗りつぶしで、紅葉山18:20→18:33登川18:55→19:06紅葉山ということになります。 |
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夕張線③ 紅葉山 1977(S52).8.4 夕暮れ迫る紅葉山駅です。 写真の列車は、18:13発の夕張行きと思われます。 なかなか雰囲気のある駅でしたが、この1枚撮っただけで登川行きに乗り換えました。 なお紅葉山駅は、1981(昭和56)年、石勝線開業に伴い、新夕張駅と改称され、駅も少し移転しました。 |
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夕張線④ 登川支線 登川 1977(S52).8.4 紅葉山から分岐する登川支線の終点です。 立派な駅舎があり、昔炭坑があったことを物語る背景もありました。 18:33に到着して、18:55に出発するまでの間の夕闇迫る登川駅です。 |
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夕張線⑤ 登川支線 登川 1977(S52).8.4 登川駅に停車中のキハ22を撮りました。 学生時代の撮影旅行では、三脚を持ち歩いていたのですが、26歳を過ぎたこの頃になると重い三脚は億劫になり持ち歩かなくなりました。従ってカメラを地面に置いてスローシャッターを押したと思います。 夕張線の登川支線(紅葉山~登川7.6km)は、1981(昭和56)年に廃止されました。 |
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夕張線⑥ Nさん撮影 清水沢~鹿ノ谷 1972(S47).3.28 夕張鉄道との交差部分を、夕張に向かって走るD51です。 上を跨ぐ夕張鉄道線から撮りました。 Nさんが1972(昭和47)年の春休みの北海道旅行で、夕張鉄道のSL写真を撮りに行き、国鉄との交差部付近を歩いていたら、運良く夕張線のD51が走ってきたので、慌てて撮りました。 (本人は国鉄夕張線の写真を撮ったことを忘れていたのですが、たまたまポジの中から見つかりました) |
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夕張線⑦ railbusさん撮影 追分機関区 1968(S43).8.15 現役の蒸気機関車が国鉄で最後まで活躍したのが追分機関区です。 追分という地名は日本全国にあり、もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味し、そこから街道の分岐点も意味するようになったということです。 ここの追分は、室蘭線と夕張線の分岐点でした。夕張炭田に活気があった頃は、石炭輸送の要衝でした railbusさんは、1968(昭和43)年に訪問しました。 railbusさん反省の弁「国鉄夕張線には乗っただけで全く写真がありません。いつも同じことを言いますが、もっといろいろ撮っておけば良かったと思ってます。特に大夕張鉄道のシューパロ湖付近や夕張鉄道の錦沢スイッチバックなどは、撮り逃して残念に思ってます。そんな中で、追分機関区だけは訪問しました。」 |
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夕張線⑧ railbusさん撮影 追分機関区 1968(S43).8.15 細長い煙突のD511119号です。 ギースル・エジェクタ(→Wikipedia)と呼ばれる独特の扁平形状の煙突です。 |
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夕張線⑨ railbusさん撮影 追分機関区 1968(S43).8.15 D51 557[追] と、D51 561[滝]の後ろ姿です。 |
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夕張線⑩ railbusさん撮影 追分機関区 1968(S43).8.15 お目当てのD50は、プレートが外されて手書きになっていました。 廃車寸前のD50 230[追] |
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夕張線⑪ railbusさん撮影 追分機関区 1968(S43).8.15 D50 25[追]には、プレートが付いていましたが、火は落とされていました。 |
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夕張線⑫ railbusさん撮影 追分機関区 1968(S43).8.15 D5025号のサイドビューです。 |
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夕張線⑬ Nさん撮影 追分機関区 1971(S46).3.30 D51 241号です。 1939(昭和14)年に製造されて、この追分機関区に配属され、1976(昭和51)年に廃車になるまで、生涯を追分一筋で過ごしました。 その履歴もあってか、1975(昭和50)年12月24日に国鉄最後の蒸機列車を牽引しました。 廃車後は、追分に保存される予定でしたが、機関庫の火災で焼失(後述⑯)してしまいました。 Nさんは、1971(昭和46)年の春休みの北海道旅行で、美唄から真谷地へ向かう途中、追分で乗換の待ち時間が2時間(10時~12時頃)ほどありましたので、追分機関区を訪問しました |
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夕張線⑭ Nさん撮影 追分機関区 1971(S46).3.30 この241号も、ギースル・エジェクタと呼ばれる独特の扁平形状の煙突です。 追分機関区にはギースルエジェクタの機関車が重点配置されていたということです。 |
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夕張線⑮ Nさん撮影 追分機関区 1971(S46).3.30 S45.3.31現在の機関車配置表では、追分機関区にはD51が23両、構内入換用の9600が3両、計26両の蒸機が配置され、夕張線・室蘭線の石炭列車などに活躍していました。 |
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夕張線⑯ Nさん撮影 追分機関区 1971(S46).3.30 木造の扇形機関庫です。 1975(S50)年12月24日に、最後の蒸機列車(貨物)が走った後も、追分駅構内ヤードの貨車入換用に9600形が3両残りました。しかしそれも翌年の3月2日に終了し、その日(1976.3.2)が国鉄蒸気機関車の最終日ということになっています。 その日から1ヶ月半後の1976(S51)年4月13日23:45頃に、この扇形庫で火災が発生し全焼しました。扇形庫内にいた保存予定のSL5両と、後継の新配属DL8両も焼失しました。 1975(昭和50)年の追分駅と追分機関区の航空写真は→Wikipediaをご覧ください。 |
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津島軽便堂 | 2013(H25).10.25up |
参考図書:
「鉄道ピクトリアルNo.318〈日本のSL最終号〉」 鉄道図書刊行会 1976(昭和51)年4月号
「日本鉄道旅行地図帳1号〈北海道〉」 今尾恵介監修 新潮社 2008(H20).5.18発行
「よみがえる北海道の鉄道・軌道」 浅原信彦・高井薫平著 学研パブリッシング 2012.9.11発行
「機関車配置表'70」 交友社 1970(S45).7.15発行