島原鉄道 島原半島に78.5kmの長大路線があった1970年代の記録です
島原鉄道は、長崎本線の諫早駅から分岐し、島原半島を78.5kmも走っていた長大路線のローカル鉄道でした。 1970年代に地方ローカル私鉄が次々と廃止になる中、頑張ってましたが、1991(平成3)年に雲仙普賢岳噴火の災害に遭い、島原より南の一部区間で長期運休、その後復旧はしましたが、乗客は戻らず、路線の南半分、島原外港~加津佐間35.3kmは2008(平成20)年に廃止されました。 詳細は→Wikipedia島原鉄道参照 私とNさんは1970年代に島原鉄道を訪問しました。そのときの写真をご覧ください。 ←左の地図は、 国土地理院1/20万「熊本」S46.11.30発行(上の2/3)、「八代」S46.12.28発行(下の1/3) 島原鉄道の現存路線を赤色で、廃止路線を青色でなぞり、撮影地の最寄り駅を青で記入しました。 |
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島原鉄道① Nさん撮影 諫早 1970(S45).7.28 45年前の諫早駅です。 島原鉄道オリジナルのキハ4500形気動車が停車中です。 この気動車は、1953(昭和28)年に4両製造されました。同年に製造された国鉄キハ17形(旧称キハ45000形)に準じた車両ですが、前面形状は湘南形でした。 門司港22:38発の夜行列車1421列車で早朝に諫早へ到着し、撮った写真です。 Nさん大学1年の夏休みの九州旅行で、先輩のrailbusさんに引率され、私も含め5人で蒸気機関車の撮影旅行をしました。朝の大村線でC57の客車列車を撮るために諫早で下車しただけで、島原鉄道には乗ってません・・・ |
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島原鉄道② Nさん撮影 早岐 1970(S45).7.28 国鉄線に乗り入れていた島原鉄道のキハ55形です。国鉄の普通列車に併結されていました。 国鉄のキハ55形とほぼ同じですが、3本のヒゲで見分けが付きます。 島原鉄道は、1958(昭和33)年にキハ20形(国鉄と同系)を製造、長崎へ直通運転を開始し、1960(昭和35)年にはキハ26形・55形(同)を製造、国鉄準急、急行にも併結し、博多、佐世保、小倉へ乗り入れ列車を順次増発したということです。 1980(昭和55)年10月に国鉄直通は廃止されました。 当時の早岐は、この付近の鉄道網の要衝で、機関区があり蒸気機関車の基地でした。この写真を撮ったあと早岐機関区へ行きました。 |
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島原鉄道③ 加津佐 1975(S50).8.6 島原鉄道の終点・加津佐です。 郵便荷物車ユニを連結したキハ20+キハ55+ユニの3両編成が到着しました。 私もこの列車に島原外港から乗り、到着してすぐにホームから降りて撮りました。 この日は、朝、熊本電鉄で混合列車を撮ったあと、三角線に乗り、三角~島原外港のフェリーに昼頃乗船し、午後に島原外港から島原鉄道に初乗車しました。 |
島原鉄道 加津佐 1975(S50).8.6 ↑④ キハ20 02を先頭に入換を始めました ←⑤ 2両目はキハ55 05でした。機回し入換中です。 ↓⑥ キハ55+20がこれから加津佐のホーム前を通り過ぎます。 |
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島原鉄道⑦ 加津佐 1975(S50).8.6 機回し入換中のキハ55+20がホーム前を通り過ぎ、ユニと並びました。 これからユニを後ろに連結します。 |
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島原鉄道⑧ 加津佐 1975(S50).8.6 ユニ202号を後ろに連結し、少しバックしています。 端面の窓が片側にしかない202号は、1933(昭和8)年に日本車輌で中国鉄道向けに製造されたガソリン車でした。中国鉄道は戦時中に国有化され、津山線・吉備線となり、この車両も国鉄キハユニ110となりました。1950(昭和25)年に島原鉄道へ払い下げられキハ202号となりましたが、新型気動車導入により郵便荷物車に改造されました。 この列車は、しばらくあとに諫早に向けて発車しました。 私もこの列車に乗り、折り返しました。 終点加津佐まで乗りつぶしただけで満足し、島原へ戻りました。 途中下車して走行写真を撮らなかったことを悔やんでいますが・・・ |
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島原鉄道⑨ 南島原 1975(S50).8.6 島原鉄道の車庫がある拠点駅・南島原です。 ホームと留置線にキハ4500形が停車中でした。 加津佐から折り返して、車庫のあるこの駅で下車しました。 |
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島原鉄道⑩ 南島原 1975(S50).8.6 南島原の駅舎と駅前風景です。 立派な駅舎でした。 |
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島原鉄道⑪ 南島原 1975(S50).8.6 留置線の端に置いてあった荷台付の気動車です。もう使われていなかったような感じがしました。 写真を拡大しても番号が判読できませんが、たぶんキハ201号と思われます。 参考図書「世界の鉄道'74」によれば、1973年に在籍していたこのタイプの気動車は、キハ200形201号と、キハ250形253号の2両です。両車とも中国鉄道→国鉄買収→島原鉄道 |
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島原鉄道⑫ 南島原 1975(S50).8.6 車庫にいた郵便荷物車ユニ101号です。 島原鉄道初の気動車(ガソリン車)キハニ100形101号として1934(昭和9)年に製造され→キハ101→ユニ101となりました。 その向こうにいるのはユニ212号です。 |
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島原鉄道⑬ 南島原 1975(S50).8.6 キハ55形がホームに到着しました。 たぶん夕暮れ迫る時間帯だったと思います。 この写真を撮ったあと、この日の宿(島原ユースホステル)↓へ向かいました。 ↓「島原の子守唄」をイメージしたスタンプです。島原の子守唄は、島原鉄道の重役だった宮崎康平氏が作詞・作曲したとされています。 宮崎氏は「まぼろしの邪馬台国」を発表し邪馬台国ブームに火を付け、2008(H20)年に吉永小百合さん主演で映画化されました。また、城山三郎氏の小説「盲人重役」のモデルにもなっています。 |
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島原鉄道⑭ 島原外港 1975(S50).8.7 島原外港を出発し南(加津佐方面)へ向かう列車です。 島原YHで1泊し、この日は最寄駅の島原外港から諫早経由で長崎へ向かいました。(高島炭鉱を訪問しました) この訪問以降、私は島原鉄道にご無沙汰しています。 島原外港~加津佐間は、2008(平成20)年に廃止されてしまいました。 |
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島原鉄道⑮ Nさん撮影 島原 1977(S52).8.2 島原駅に到着するキハ16形です。 島原鉄道は、国鉄から キハ16形を4両1975(昭和50)年に キハ17形を4両1979(昭和54)年に 譲渡を受けました。 キハ16と17は、形状は同じでトイレの有無(トイレ有りが17形)で形式が分かれます。 →Wikipediaキハ10系参照 キハ10系の中でキハ17形の車両数が圧倒的に多かったのでキハ17系とも呼ばれます。 Nさん初の島原鉄道訪問です。三角から船で島原外港へ渡り、1泊したあと島原8:06の列車で加津佐に向かいました。 |
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島原鉄道⑯ Nさん撮影 南島原 1977(S52).8.2 車庫のある南島原に停車しました。 Nさんは乗ってきた列車から降りて、この写真を撮り、また乗って加津佐に向かいました。 キハ16形の側面に広告が入ってますので、国鉄の車両でないことがわかります。 遠くの方で、ディーゼル機関車が入換中です。 |
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島原鉄道⑰ Nさん撮影 有家 1977(S52).8.2 加津佐に向かう途中、キハ26形とすれ違いました。クーラー付です! どこの駅か不明でしたが、この頁一番下の時刻表を見ると有家でした。 |
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島原鉄道⑱ Nさん撮影 加津佐付近 1977(S52).8.2 終点の加津佐へ9:18に着いたあと、その折り返し列車を加津佐の近くで撮りました。 キハ16形の2連です。 |
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島原鉄道⑲ Nさん撮影 加津佐付近 1977(S52).8.2 上の写真⑱の続きです。 通り過ぎた列車を振り返って撮りました。 |
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島原鉄道⑳ Nさん撮影 加津佐 1977(S52).8.2 郵便荷物車付の列車が加津佐に到着しました。 両側に貨車が置いてあり、ちょっと良い感じでした。 左の方は、海沿いのキャンプ場のようです。 |
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島原鉄道(21) Nさん撮影 加津佐 1977(S52).8.2 キハ5503号をユニ212号に連結します。 郵便荷物車ユニ212号は、1936(昭和11)年に日車で製造され、芸備鉄道(→国鉄芸備線)キハユニ16→国鉄キハユニ40920→防石鉄道キハニ102となり、島原鉄道ではキサハ211という客車でデビューし、それまでいた木造客車を淘汰したということです。 |
島原鉄道(22・23) 加津佐 1977(S52).8.2 Nさん撮影 ↑(22) 加津佐駅で出発を待つユニ212号です。 貨車も留置してあり、終点加津佐まで貨物列車が走っていました。 ←(23) ユニの荷物室ドア越しに海の方を見ました。 海水浴のできるキャンプ場のようです。 |
参考図書
「世界の鉄道'74」朝日新聞社1973(S48).10.14発行
「新・消えた轍10 九州・四国-ローカル私鉄廃線跡探訪-」寺田裕一著 ネコ・パブリッシング2010.7.30発行
「私鉄車両めぐり特輯 第Ⅲ輯」鉄道図書刊行会1982(S57).4.25発行(島原鉄道は1965/S40発行の再録)