津島軽便堂写真館

長野電鉄   2000系特急電車が走っていた頃の記録

長野電鉄は、長野市を拠点に70.6kmの路線網がありましたが、約半分が廃止となり、現在は長野~湯田中間33.2kmだけになりました。
志賀高原を観光地として開発するなど、観光にも力を入れ、1957(昭和32)年には観光特急用に高性能車を自社発注で製造しました。
その後も、OSカーと呼ばれる通勤通学用車両を製造するなど、魅力的な地方私鉄でした。
現在、特急用・通勤通学用の車両は全て他車からの譲渡車で運用されています。

長野電鉄にオリジナルの車両が走っていた時代の写真をご覧ください。


← 国土地理院発行1/20万地図に追記
 「長野」
昭和42年発行(下半分)
 「高田」
昭和44年発行(上半分)
赤線が現存路線、青線は廃止路線
撮影地の
最寄駅を記入
長野電鉄① 信州中野 1978(S53).9.27 Nさん撮影

2000系の特急が信州中野で交換です。
2000系は特急用の2扉クロスシート車でMc-T-Mcの3両組成が1957(S32)年に2本、59年に1本、64年に1本の計4本が製造されました。
1955(S30)年に登場した名鉄5000系とよく似たスタイルの高性能車で、当時の地方私鉄としては画期的な電車でした。
長野電鉄②   Nさん撮影

信州中野 1971(S46).8.10

この頁の一番古い写真です。
左の電車は、1966(S41)年に通勤通学用に製造された0系電車で、OSカー(Officemen & Students Car)と呼ばれました。当時、非常に斬新な正面デザインで人気がありました。地方の私鉄が、東京に負けない格好いい電車を作ったと感動しました。

右の電車は、1926(大正15)年製のモハ100形102です。長野電鉄の前身・長野電気鉄道が開業(権堂~須坂)用に製造した電車ということです。
長野電鉄③   Nさん撮影

 須坂 1974(S49).10.18

国鉄の169系直通急行「志賀1号」が須坂を出発、湯田中に向かいました。
(この日はNさんと一緒に朝上田交通別所線で写真を撮り、上田から湯田中行きの「志賀1号」に乗りました。屋代~須坂間を乗り潰すのが目的で、須坂で下車し、次の長野行きに乗り換えました。)

169系の右に、青い電気機関車が待機しています。急行の出発を待って貨車の入換を開始しました。
(下の写真)


写真をよく見ると、ホームに地下道入口が見えます。当時の須坂駅のホーム間は地下道でした。
長野電鉄④

 須坂 1974(S49).10.18

上の写真③の直後です。
ED5100形5101が入換を開始しました。駅員が貨車にぶら下がり、駅構内で突放入換を始めるところです。

このED5100形は、元・定山渓鉄道の50t機関車で、2両が1957(昭和32)年に製造され、同鉄道廃止(1969/昭和44年)に伴い、2両とも長野電鉄へ譲渡。1979(昭和54)年に長野電鉄の貨物営業廃止に伴い、越後交通長岡線(当時は貨物営業のみ)へ譲渡され1995(平成7)年の廃線まで使用されました。
長野電鉄⑤

 須坂 1974(S49).10.18

上の写真④の反対方向(屋代方)を見ました。貨車入換中の風景です。

構内には腕木信号機もありました。この4番線ホームの屋代方面の出発信号機でしょうか?
長野電鉄⑥

 須坂 1974(S49).10.18

3番線ホームから長野方を見ました。
(上の写真⑤と同じホームの右側)

車庫の左の線路(右へカーブ)が長野に向かう本線です。

車庫には、クハ1550形、モハ1000形、モハ1100形などが停まっていました。
長野電鉄⑦  Nさん撮影

 須坂 1974(S49).10.18

湯田中方面から長野行きの2000系特急が3番線に到着します。

左(2番線)に停車中の電車は1926(大正15)年製のモハニ130形132です。

急行「志賀」でこの駅について、特急「奥志賀」に乗って長野へ戻り、特急「しなの」で帰りました。
長野電鉄⑧

 木島 1977(S52).2.16

長野電鉄の北端・木島駅です。
出発を待つモハニ230形231です。

野沢温泉でスキーをした後、帰り道で撮りました。
長野電鉄⑨

 信州中野 1977(S52).2.16

長野行きの特急が出発しました。
2000系の最後の増備車で、4本目のこの2000系(2007-2008編成)のみスカートが付いていました。
長野電鉄⑩

 信州中野 1977(S52).2.16

木島行きの3連が停まっていました。

クハ1550形1552は1953(昭和28)年に鋼体化改造された車体です。
長野電鉄⑪

 信州中野 1977(S52).2.16

モハニ530形532です。

上の写真⑦の130形と同じ車体ですが、こちらは電気ブレーキを装備した山線用の電車です。
長野電鉄⑫

 湯田中 1977(S52).2.16

終点の湯田中へ到着した2000系特急です。
湯田中・渋温泉の玄関口で、志賀高原の入口でした。



↓現在の湯田中駅 2019(R1).6.28
1000系「ゆけむり」が出発。
左の写真と同じ方向から見た写真です。線路は1線に減らされ、旧1番ホームは使われていません。
長野電鉄⑬

 湯田中 1977(S52).2.16

湯田中の信州中野方です。
上の写真⑫の反対側です。

湯田中駅は駅のすぐ手前まで40‰急勾配で、駅のすぐ向こう側に踏切があったので、ホームの有効長が3両分確保できず、3両編成の場合はホームを約1両分通り過ぎ、ポイントを切換えて側線にスイッチバックしホームに到着しました。

2006(平成18)年に駅の改修が行われ、2線を1線に減らし、スイッチバックを解消しました。
これは2階運転台の小田急10000系(HiSE)→1000系「ゆけむり」を導入するためと言われています。
(上の写真⑫参照)
長野電鉄⑭

 須坂  1977(S52).2.16

須坂駅の全景です。
上の写真③~⑦と見比べると、だいぶ近代化された姿です。跨線橋もできました。

Wikipediaで調べると、1975(昭和50)年12月に駅舎全面改築と記載されていますので、それから約1年後の駅風景です。


昔も今も長野電鉄の拠点駅です。
長野電鉄⑮

 須坂  1977(S52).2.16

手前からクハ1151-モハ1102-モハ1101の3連です。
木造車の機器を再利用し、全金属製の車体を組み合わせた車両で1961(昭和36)年に製造されました。

3両とも1979(昭和54)年に廃車となり、クハ1151-モハ1101は豊橋鉄道へ、モハ1102は伊予鉄道へ譲渡されました。
長野電鉄⑯

 須坂  1977(S52).2.16

左端のモハ2611は、元東急の5000系で長野電鉄へ譲渡された直後の姿です。

長野~善光寺下間の地下化に備え、東急の5000系「青ガエル」を1977(昭和52)年から2連10本、3連3本の計29両を導入し、2500系として使用しました。

元東急車の右隣はクハ1050形、その右はモハ1500形で、共に戦後間もない頃に製造された電車です。
長野電鉄⑰

 須坂  1977(S52).2.16

OSカーと呼ばれた0系です。
1966(S41)年に2連×2本製造された4扉の通勤通学用車両で、この当時の最新鋭車両でした。
1997(平成9)年まで活躍しました。
長野電鉄⑱

 須坂  1977(S52).2.16

クハ450形451です。連結相手はモハ400形401です。
共に1926(大正15)年製の元東武の電車で、戦後間もなく長野電鉄へ譲渡されました。

右隣は電気機関車ED5000形5001です。
長野電鉄⑲

 須坂  1977(S52).2.16

1926(大正15)年製のモハニ130形132です。

一番手前の扉が荷物室用の扉です。
長野電鉄⑳  Nさん撮影

 長野  1978(S53).9.27

長野駅の地上ホームで並んだ2000系と、元・東急の2500系電車(右)です。

2500系2600番台は3連です。

長野~善光寺下間は1981(昭和56)年に地下化され、長野駅は地下駅になりました。
長野電鉄(21)  Nさん撮影

 湯田中  1978(S53).9.27

2000系2006(2005編成)の特急が湯田中を出発しました。すぐに40‰の急勾配を下ります。

先頭1両分のホームは側線にあるため、一旦バックし、ポイントを切換えて出発しました。

長野電鉄(22)  Nさん撮影

 信州中野 1978(S53).9.27

1番線にはOSカーの木島行き、2番線には元東急2500系の長野行き、3番線の2000系は湯田中行きでしょうか。
長野電鉄(23)  Nさん撮影

都住~桜沢  1978(S53).9.27

有名な桜沢の大カーブを走行する2500系です。
長野電鉄(24)  Nさん撮影

都住~桜沢  1978(S53).9.27

有名な桜沢の大カーブを走行する2000系特急です。
スカート付きなので2007-2008編成です。
長野電鉄(25)

 屋代  1982(S57).8.3

国鉄との接続駅屋代で、モハ1000系1003が出発待ちです。

屋代~須坂間は河東鉄道により1922(大正11)年に開業した長野電鉄最古の路線でしたが、2012(平成24)年に廃止されました。

この電車に乗り須坂に向かいました。
長野電鉄(26)

 信濃川田  1982(S57).8.3

この駅で列車交換のため、しばらく停車したので、降りて撮りました。
長野電鉄(27)

 朝陽  2011(H23).2.5

2000系が朝陽駅に到着します。
長野~朝陽間は複線で、この駅から須坂方面は単線になります。

上記(~26)写真から時代は一気に過ぎ去り、28年以上経過しました。

2006(平成18)年には2000系特急の後継車として小田急10000系(HiSE)4連2本が1000系「ゆけむり」として登場。
2011(平成23)年にはJR東253系(成田エクスプレス)3連2本を導入、2100系「スノーモンキー」として2月下旬から運転開始されることになり、2000系の引退が迫ってきました。
引退直前の撮影会にお誘いがあり、喜び勇んで参加しました。
引退が迫った頃の2000系は、運用が公表されていたので、2000系を中心に撮りました。
長野電鉄(28)

 須坂  2011(H23).2.5

須坂駅で並んだ2000系です。4編成製造された2000系ですが、2編成だけ残っていました。
右側がA編成と呼ばれた1957(S32)年製の最初の2001編成で、登場時の栗色+白帯に復活塗装されていました。
左側がD編成と呼ばれた1964(S39)年製の最後の2007編成です。この編成だけスカート付きです。2000系にはこの色が一番似合いました。

A編成は、2100系「スノーモンキー」の運用開始に伴い、約1ヶ月後に引退するので、先頭には【信濃路を走って54年「ありがとう」「おつかれさま」さようならA編成】と書いたヘッドマークが付いていました。
D編成も特急運用を外れ、イベント列車などに使用された後、1年後に引退しました。
長野電鉄(29)

 須坂  2011(H23).2.5

中央のステンレス車3500系は、元・東京の営団地下鉄3000系で、その先頭形状から「マッコウクジラ」の愛称がありました。1992(H5)年から約5年間で、2連14本、3連3本の計37両が導入され、長野電鉄の主力になりました。

左奥の8500系は、元・東急の8500系で、2005(H17)年に3連2本、翌年も3連2本、2009(H21)年に3連2本と、計18両が導入され、3500系を置き換えつつあります。

右奥の電車は新OSカーと呼ばれた10系で1980(S55)年に2連1本だけ製造されました。2003(平成15)年に廃車となったのですが須坂に長らく留置され、2017(H29)年にお別れ会をして解体されたそうです。
長野電鉄(30)

信濃竹原~夜間瀬 2011(H23).2.6

長野電鉄一番のお立ち台・夜間瀬川橋梁です。

堤防上には大勢のファンが集結しました。
長野電鉄(31)

信濃竹原~夜間瀬 2011(H23).2.6

夜間瀬川を渡り信濃竹原に向かう特急「ゆけむり」です。
元・小田急のHiSE車で、2006(平成18)年に長野電鉄へ4連2本が譲渡されました。
長野電鉄(32)

 夜間瀬 2011(H23).2.6

夜間瀬駅の横で2000系特急を撮りました。

背景は高井富士と呼ばれる高社山で全体の色の感じが良く、私のお気に入り写真です。
長野電鉄(33)

信濃竹原~夜間瀬 2011(H23).2.6

2000系の最後の写真は、夜間瀬川橋梁+高社山です。

この電車の色は、雪景色にも新緑の風景にも似合う素晴らしい色でした。

2000系は、このD編成の引退で全廃され、現在、小布施駅の「ながでん電車の広場」に保存されています。↓

 ↑小布施 2019(R1).6.29
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参考図書:「世界の鉄道'76」 朝日新聞社 1975(昭和50)年10月発行
       「私鉄車両めぐり特輯[第Ⅲ輯]」 鉄道図書刊行会 1982(昭和57)年4月発行

       「りんご電車とその仲間たち」 後藤文男著 交友社 2011(平成23)年7月発行