津島軽便堂写真館

HSST大江実験線  磁気浮上式鉄道を実用化するために建設された実験線の記録

磁気浮上式鉄道Linimo(リニモ)を実用化するため、名鉄築港線(大江~東名古屋港)に沿って1991~2004(H3~16)年の間、HSSTの実験線がありました。

HSST
(High Speed Surface Transport)は、1974(S49)年に日本航空(JAL)が開発に着手し、博覧会などで展示走行を行ってきましたが、公共交通機関として実用化するためには、信頼性や異常時の安全性などを、実験線で検証する必要がありました。
愛知県は名古屋東部丘陵にHSSTの導入を検討し、名鉄へ協力を依頼。名鉄・愛知県・㈱HSST(JALから分離)は協力して実用化に取り組む方向でまとまり、1989(H1)年に中部HSST開発㈱を設立、実験線を建設しました。
大江実験線は1991(H3)年に完成し走行実験を開始、1993(H5)年には実用化研究調査委員会から「実用化問題なし」との評価をもらい、リニモの実用化に貢献、2004(H16)年に役目を終え、撤去されました。
私は1989(H1)年から中部HSSTに出向し、7年間開発に携わりました。思い出深い実験線のことを、なんとか記録に残したいという思いで、このページを作成しました。ご覧ください。

←中部HSST開発のパンフレットより

 実験線の思い出話は→実験線の思い出
HSST実験線-① 1991(H3).5.22

大江実験線では、1991(平成3)年5月から実験走行を開始しました。
('91.5.21に実験線発車式・竣工式開催)
動き始めたHSST-100形が実験線の中間点付近を走行しています。
最高速度100km/h走行を目標に開発され、100形の名がつきました。
車体長8.5m、幅2.6mの2両ユニットです。車体サイズはポートライナー等の新交通システムと同程度でした。
東名港方(写真右)が正面貫通式のMc1(101号)、大江方が正面非貫通のMc2(102号)です。

後に車体が長い(14.4m)100L形が製造されたので、こちらは100S形と呼ばれるようになりました。
HSST実験線-②  1995(H7).9.29

大江駅近くの分岐点です。

左が1991(H3)年から実用化試験を行ったHSST-100Sです。
右は車体が長いHSST-100Lで、1995(H7)年に入線しました。

この日は、写真撮影用に100Sと100Lを並べました。

分岐器は、跨座式モノレールと同様、桁全体が動く方式です。
HSST実験線-③  1992(H4)

HSST-100形Mc1の車内です。
Mc2車の連結部から見た写真です。
車内は実用化時をイメージした設計で、東名港方を向いた固定クロスシート車でした。
大江実験線で実験走行が始まると、見学希望者への対応が悩みの種となりました。
そこで、初期トラブルが一段落し、実験走行が順調に進むようになった頃から、毎週金曜日を見学希望団体への見学会開催日としました。見学者は事務所でHSSTの仕組などの説明を受けた後、この車両に乗り、大江~東名古屋港間を2往復試乗しました。
HSSTを世の中にPRすることも実験線の役目だったわけです。特に導入を検討している海外の国や自治体はVIP扱いで、実験走行を中断してまで試乗対応をしました
。(結局、話だけに終わり、海外へ導入されることはありませんでしたが・・・)
HSST実験線-④  1992(H4)

HSST-100形Mc2の車内です。
Mc1の連結部から撮りました。
こちらの車内は、走行試験用に測定機器が所狭しと並べてありました。
HSST実験線-⑤  1994(H6)

分岐部付近を走行するHSST-100形です。
車両の向こう側には、分岐線が見えます。
1991(H3)年5月下旬から始まった走行試験は、1993(H5)年3月末で一定の成果を上げ、学識経験者・運輸省・建設省などの委員により組織された実用化研究調査委員会から「HSSTは実用化問題なし」をいう評価を1993(H5)年5月にもらいました。

評価をもらった後も、改良を進めると同時に、長期走行試験を継続し、1日中走らせて耐久性を調査していました。
HSST実験線-⑥  1992(H4)

分岐線の奥から撮った写真です。
車両のいる位置が、半径25mの最急曲線です。曲線通過性能を調べるため建設されました。

上の写真⑤の逆方向から見た写真です。
HSST実験線-⑦  1994(H6)

半径100m曲線部を俯瞰しました。
車両がいる位置が、実験線唯一の道路との立体交差部でした。その横には築港線の踏切
(これも当時は築港線電車走行区間唯一)がありました。
HSST実験線-⑧  1991(H3)

半径100mを走るHSST-100形です。
カントが8度ついていますので、車体はかなり傾斜しています。
上の写真⑦の逆方向からです。

ここの制限速度は確か50km/hだったと思います。ここを通り過ぎR=300m&30‰の勾配を上り、道路の上を越した後60‰の勾配を下り、地上部に出ます。そこで100km/hを出すためにはこの曲線を通り過ぎたところでフルノッチを入れました。
HSST実験線-⑨  1991(H3)

大江に向かって60‰の勾配を上っています。
その向こうには築港線の3730系HL電車も通勤帰りのお客を乗せて走っていました。
HSST実験線-⑩  1994(H6)

東名港に向かい併走するHSST-100形と築港線の名鉄電車です。

築港線は、昔は東名港地区の貨物輸送の動脈だったので複線でした。単線化されて用地があったので、そこに実験線が建設されました。

立派な築港線の電柱(鉄柱)は、昔、架線の上を送電線が通っていたためです。
 参考↓1982(S57)年の築港線
HSST実験線-⑪  1994(H6)

70‰の急勾配に向かって来ます。
向こうに見える60‰の勾配を下り、地上部分で100km/h走行を行い、この辺りからブレーキをかけ始めます。

実験線が撤去された後、この中間付近の曲線(R=1500m)の向こう側に築港線の踏切ができました。
HSST実験線-⑫  1994(H6)

70‰の勾配を上りきったHSST-100形です。
この日は高所作業車を借りて⑪⑫の写真を撮りました。
HSST実験線-⑬  1993(H5)

70‰の急勾配を上りきって直ぐに鉄道線との立体交差がありました。
築港線が名古屋臨海鉄道への連絡線と平面交差するクロッシングの斜め上でした。

邪魔者がなく、一番スッキリとれる場所でしたが、こちら側に日が当たるのは、夏場の夕暮れしかありませんでした。
HSST実験線-⑭  1993(H5)

上の写真⑬の少し東名港寄りでした。
この辺りは俗に三角地帯と呼ばれ、名鉄電車の廃車解体が行われていました。
HSST実験線-⑮  1993(H5)

三角地帯を逆方向から見ました。
向こう側が東名港です。
HSST実験線-⑯ 1994(H6).10.23
      
(これだけNさん撮影)

東名古屋港のHSSTホームから大江方を見ました。
NさんがHSSTに試乗に来たとき降りて撮りました。

この真下に築港線の東名港ホームがあります。実験線の橋脚はホーム上に立っていました。
HSST実験線-⑯ 1995(H7).9.1

HSST-100Lです。
車体長が8.5m(100S)→14.4mと長くなりました。
HSST-100Sで経験した様々なトラブルを解消し、その成果を元に改良し、より実用的な車両を目指して作られました。
1995(平成7)年6月に実験線で運転を開始しました。

実験線とHSST-100Sは中部HSST開発(名鉄系)の所有物ですが、この100Lは東京のHSST開発(JAL系)の所有物でした。


この100Lが登場してからは、実験線の主役は100Lになり、実用化に多大な功績を果たした100Sは、分岐線の奥(写真左側)に1日中留置されることが多くなりました。
HSST実験線-⑰ 1995(H7).9.1

HSST-100Lが築港線電車とすれ違いました。
築港線電車がガタンゴトンと平面交差のクロッシングを通り過ぎ、大江に向かいました。

私が中部HSST開発に在籍したのは1989(H1).9.1~1996(H8).6.30の約7年間でした。
(その前後は名鉄住商に在籍)
HSST-100Sは、最初の頃、故障が頻発し、その対応に振り回されました。VIPの試乗があったときなどは、なんとか無事に走ってくれと祈りながら添乗していました。満車試験用の荷重の積み卸しなどを含め100Sには忘れられない思い出がいっぱい詰まっていて愛着がありますが、100Lのほうは搬入後1年で私が実験線を去りましたので、あまり印象に残っていません・・・
HSST実験線-⑱ 2002(H14).11.12

愛知高速交通リニモが、2005(H17)年の開業に向け、先行車両を製作、走行試験をするために、この実験線に搬入されました。
この日、大江実験線で報道陣へ初公開されました。
リニモは、HSST-100Lがベースになっています。


大江の築港線ホームの上にHSSTのホームがあり、駅の跨線橋に直結していました。
左側は車庫ですが、HSST-100S用に作られた長さのもので、100Lやリニモは、はみ出していました。
HSST実験線-⑲ 2002(H14).11.12

築港線の電車と上下に並んだリニモ(Linimo)です。

この先行車両は、2003(H15)年3月まで大江実験線で走行試験を行い、一旦メーカー(日車・豊川)へ戻って改造を受けた後、同年11月に東部丘陵線リニモの車両基地へ運ばれたそうです。
2004(H16)年6月から東部丘陵線の一部区間で試運転を開始、10月からは全線試運転を行いました。
開業は2005(H17)年3月6日で、3月25日から半年間開催された愛知万博「愛・地球博」では主たる輸送機関として大活躍しました。

Linimoに関しては
 →愛知高速交通のHP参照
HSST実験線-⑳ 2004(H16).11.17

上の写真⑱⑲の2年後です。
東部丘陵線での試運転が始まり、実験線の役目は終わりました。
2004(H16)年11月から実験線の軌道桁の撤去が始まり、役割を終えた100Lも運び出されました。
噂によれば、三菱重工三原まで運ばれていったということです。
HSST実験線(21) 2005(H17).1.21

いよいよHSST-100Sが約14年間過ごした実験線を去る日が来ました。

HSST-100Sは、中部HSST開発が費用を負担し、名鉄舞木検査場へ保存することが決まりました。その保存展示工事一式を名鉄住商が請け負い、私が担当者となりました。

分岐線の奥でクレーン車により吊り上げ、この下に待機しているトレーラーに積み込みます。
右側の、分岐につながる半径25mの鋼桁は既に撤去されていました。
HSST実験線(22) 2005(H17).1.21

HSST-100Sの車体を吊り上げた後に残されたモジュール(電車の台車に相当)を運び出します。

右の方には分岐部が残っていますが、それとつながっていた桁は撤去済みでした。

HSST-100Sの車体とモジュールは、この日の夜に舞木へ運ばれました。
HSST(23)舞木 2005(H17).1.22

舞木検査場に搬入されるHSSTです。
検査場の通常業務に支障しないよう検査場の休業日に搬入するよう予定を組みました。

搬入に先立ち、軌道部は施工済みでした。枕木とレールは実験線から取り外して再使用しています。
まずモジュールをレールに差し込みです。
モジュールには浮上用の電磁石4個とリニアモーターが組み込まれておりHSSTの心臓部でした。
HSST(24)舞木 2005(H17).1.22

舞木検査場の守り神・成田山の横でHSSTの車体を吊り上げ、レール上に据え付けています。
車体は製造後14年経過し、だいぶ色褪せていました。

実は、このHSST-100形が舞木に保存展示された最初の車両です。
これに刺激を受け、舞木検査場に名鉄電車も保存しようと思い立ち、この直後に廃車になった5500系を3月1日に、8800系を3月24日に解体場へ行って車体の一部を切り取り、舞木へ運んできました。
翌2006(H18).3.10に3401号と一緒に舞木検査場内のテニスコートへ展示されました。
2008(H20).11.30にはパノラマカー2両の展示も行いました。
HSST(25)舞木 2005(H17).3.2

HSST搬入後、屋根の取付工事を行いました。
そして、車両全体をネットで囲って車体の塗装工事も行いました。
HSST(26)舞木 2005(H17).3.7

塗装が終わり、きれいになりました。
このHSST-100S形が大江実験線で活躍している頃は、まだ舞木検査場は出来ておらず、その前身の鳴海工場の検修係員に大江車庫へ出張してもらって検査修繕をしていました。
(舞木検査場の稼働開始は1997(H9)年4月)

この展示工事を請け負った名鉄住商は、この工事直後の2005(H17).3.31限りで会社が解散してしまいました…
実験開発に取り組んだ中部HSST開発も、その後会社が解散しました…
HSSTの仕組や開発経緯については
 →HSSTパンフレット
    をご覧ください
HSST実験線の思い出話は
 →HSST実験線の思い出
    をご覧ください。
 「LIM 開発50周年記念誌」寄稿文
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参考図書:「中部HSSTのあゆみ」1994(H6).6月 中部エイチ・エス・エス・ティ開発(株)発行
      「LIM 開発50周年記念誌」2013(H25)年 (社)日本地下鉄協会発行